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47才のキャンパスライフ 〜慶應一年生ミュージシャンの日々〜 30「図書館での文化的睡眠」
4日間にわたる名古屋/大阪でのライブを終えた翌日、早朝の新幹線に乗り日吉キャンパスまで帰ってきました。こういうのはいかにも「兼業大学生!」という感じがしていい。なんというか「やってる感」があります。ギターとキャリーケースを引きずりながら歩く様はあまりみっともよくないですが。
今日は本来の授業日ではなく補講日というやつで、いつになく大学内に人が少なく、人気(ひとけ)のない構内が珍しくて思わず自撮りなどしてしまった。そして常に混んでいるので敬遠していた学食ランチも、念願叶って食べる事ができました。いつもと少し違う日常は何かいいものです。
そしてこれまた普段より人の少ない図書館にやってきて、勉強したり作曲したり、このnoteを書いたりしている。なかなかの充実ぶりではないでしょうか。ありがたいことである。
図書館の入り口を通ってすぐ左手の雑誌などがあるエリアには、ごろっと横になれるソファ的なものが何個か置いてある。そして十中八九、いや十中九分九厘と言って良いくらい、学生達が数人横たわっている。というか寝ている。もうなんと言うか気持ちいいくらい潔く寝ている。
その光景を見るたびに
「ああ、いいものだなあ」
と思う。もちろん皮肉でもなんでもなく本心から。大学の図書館で横になって眠るなんて、これ以上の文化的行為があるだろうかとさえ思う。若者はいつだって眠いのだ。絵になる。といいつつそんなにジロジロとは見ないですけど。
しかしこれも若者であるからこそ絵になるし、文化的だとさえ思えるのだ。もし47才の私が真似をしようものなら途端に、終電間際のホームのベンチ感が出てしまう。なんというか醸し出す空気がきっと圧倒的に違う。
そんなことを思うたびに、昔読んだ村上春樹氏のエッセイ「傷つかなくなることについて」(エッセイ集「村上朝日堂はいかにして鍛えられたか」に収録)が頭をよぎる。
ざっくりとした内容は
「歳を取ったものが精神的に傷ついたり、それを表に出すのはあまり見栄えのいいものではないと考えるに至った」
という趣旨の文章があり
「若者が精神的に傷つきやすいのはひとつの傾向であるだけでなく、彼らの固有の権利でもある」
と続く。
傷つく事と眠る事はだいぶ違うんだけど、まあ通底するところはある気がして、図書館で眠る彼らを見るたびに僕は
「ああ、青春の只中にいる彼らならではの権利なんだなあ」
と遠い目になるのである。
もちろん僕も若い頃はその権利をふんだんに行使していて、バンドを組んだ頃からデビューして少しくらいまではほぼ「傷つくこと」だけが創作の源泉であった。格好をつけて言えば飯の種であった。ロックという音楽にはそういう側面が少なからずある。
若い頃はいくら傷ついたとしても、それを乗り越えるしなやかさがあるし、受け取る方もその潜在的なエネルギーを感じ取れるので「傷つき」が芸になると言えるかもしれない。
僕くらいの歳の人があからさまに傷つきを歌うと、なんというかリアルな感じが出てしまって、芸として昇華しづらいのではないかと、僕は(飽くまで個人的に)感じる。
しかしそう格好をつけたところで何歳になっても傷つくものは傷つくのだし、なんだったら最近は少し前より繊細になっている自分に気づいたりする。(若者に囲まれているからでしょうか…?)
傷つく「権利」はもはや僕にないとしても、せめて「資格」くらいは、こっそりと持っていてもいいんじゃないかと、飽くまで個人的に感じる今日この頃であります。
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