見出し画像

息のつづく限りのおやすみなさいを

 感じる速度ってなんだろう。
 水餃子の、つやんとひかるひだを見つめながらそう、思った。感じる速度が高まって、涙があふれるときの、あの解像度はなんなのだろう。まるっこい水餃子はスープの海で寝そべっている。つぶらな瞳が輪っかになってわたしを惑う。窓をきっかりしまっていて、午後の音が満ちている。近くにおいた冷水から雫が薄くのびている。わたしの頬に、わたしの手から、わたしの作った味が入っていく。おそるおそる、されど確かな足取りで、その感触のための嚥下の、うっとりするような心地と、それらすべてを一纏めにする“食事”へのシナジー。ゆるされるゆるされないのあわいで揺れている感じる力の、それは、結局のところなんだっけ。

 水を飲む。
 力を飲む。

 似ているままにからだにしていく。すとんと落ちていく。つめたいがそのままからだの奥に落ちていく。そしてわかる、わたしに内側があることがわかる。順番になぞって確かめるような午後が、脳を濯いでゆく。しろい風が強く吹いた。それは文鳥の鳴き声のようで、隅でわたしの小鳥はヒーターに寄り添うように眠っている。いま、寝息の部屋になる。白文鳥の寝息の部屋が、わたしと午後を分け合っている。

 食と恍惚は近いところにあって、それは咀嚼より嚥下に作用している。つまるところ、喉の動きが美しい。それは崖のようだ。男性も女性も各々の崖を持っている。それらの胎動は力強く時にやわらかく、吐息のなかにふくまれる遠い死をしっかり知らしめる。 

 昼食はそんなかんじで、わたしの体はそんなふうで、生きてはいますけど生きられてはいないみたいなかろうじての生活がエモいなんて言われているみたいで、そのシャボン玉の眩しさを褒めるような卑しさをみなさん持ち合わせているみたいで、それはわたしを内側にした皆さんで、明日はホットケーキを焼きましょうか。おやすみなさいをしましょうか。
息の続く限りのおやすみなさいを。




2024.0106


この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?