【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第52話-春、修学旅行3日目〜紗霧の朝

 朝風呂は6時から入れるらしい。修学旅行の間、紗霧の朝は風呂の解禁とともに始まっていた。
 割り当てられた風呂の時間に入浴しない旨は、教師たちに事前に報告してある。同級生たちに体を見られないようにするためだった。
 
 湯船に体を沈める。周りに人がいないため、眼鏡を外して素顔をさらすことへの恐怖心は薄れていた。元々彼女の視力は悪くない。むしろ眼鏡は邪魔なくらいだ。
 幼さは抜けていて、気品があるのに大きくて魅力的な目元。眼鏡はそれを隠すためにかけている。
 洗い髪を束ねて団子にしているため、小さくてほっそりとしながらも柔らかそうな頬の輪郭も隠れていない。
 鼻は低すぎず高すぎず。自然なカーブを描いて伸びている。それを隠す前髪も今はお団子の中に収まっている。
「可愛いのと、綺麗なのどっちが好み?」
 そのどちらの派閥からも好かれるバランスの取れた顔立ち。
 紗霧の顔を隠すものは、全て取り払われていた。重炭酸の湯はややとろみがかっていて、腕を持ち上げると紗霧の肌を滑るように雫が流れていく。
 その腕に、手首に、無数の小傷が浮かんでいた。
 手首だけではない。腹にも同じような傷が、たくさん浮かんでいる。
 紗霧が自分でつけた傷だ。
 紗霧ご同級生たちと風呂に入ることができないのは、その無数の心身に刻まれた傷が原因だった。

 風呂から上がり、髪を乾かす。タオルドライで済ませたほうが髪が傷むことはわかっている。しかし、自分でハサミを入れて故意に不格好に仕上げた髪だと言うのに…髪質を傷めるのには、なぜか強い抵抗があった。
 
 体中の至る所に傷を入れるようになった頃。母が紗霧を抱きしめて、泣きながら「顔だけはやめなさい」と優しい声で叱ってくれたのを思い出す。
 自分の顔が憎くて仕方がなかったあの頃。
 あれからも何度も何度も顔に刃を突き立てようとしては、ギリギリで思いとどまってきた。
 刃を止めてくれたのは母の愛と…貴志の思い出。貴志がたくさん褒めてくれた笑顔。涙を拭いてくれた頬。
 どうしてもその思い出に刃を突き立てることができなかった。
「貴志くん…」
 脱衣所は紗霧一人。広い空間に虚しく彼の名前だけが静かに響く。
「会いたい…会いたいよ」
 自分で彼から逃げ出した。2年前も、そして一昨日も。それでも会いたい。顔が見たい。声が聞きたい。
 でも彼はこの傷をみたらきっと怒るだろう。それでも…。

 身支度を整えてスマートフォンを手に取った。衝動的に通話アプリを開く。
 声が…聞きたい。
 貴志の名前を見つけて、開こうとしてその手を止めた。
 貴志からのメッセージ通知が、点灯している。そうだ…それを開いてしまったら、きっと見たくない言葉が書いてある。
 怖くて、怖くて仕方なくて丸一日開くことができなかったメッセージが、そこにある。
 読まなかったことにして、そのまま通話をかけてしまえば良い。
 でもそれで通じなかったら?その通話に彼が応じてくれなかったら?
 紗霧はスマートフォンとにらめっこをしたまま動けなくなっていた。

 それでも貴志の断片さえ愛おしくて。しばらくして紗霧は貴志の名前を選択した。
 開かれた画面に表示されるのは、昨日届いた貴志からのメッセージ。

「おはよう。お久しぶりです。どんな挨拶もしっくりこないくらい色んな気持ちが溢れています。
 紗霧は元気にしていますか?
 横浜中華街に紗霧も来ていると聞いて、本当に驚いたよ。もしかして会えるんじゃないかと思って、胸が躍った。
 近くに紗霧がいると思うと、本当に嬉しかったんだ。
 もしもこれを読んで嫌な気分になったなら、即消してブロックしてほしい。
 これは、俺の長い独り言だから」
 貴志らしい書き出しだった。もはや電子的に綴られた活字すら愛おしい。
 文字から伝わる貴志の輪郭に触れていたくて、心とは裏腹に読み進めてしまう。
「貴志くん…」
 彼の名前を呼んでも、ここにはいない。声は届かない。あの時、あんな事をしなければ貴志は駆けつけてくれてたのだろうか。
 高島理美の彼氏となった彼が。

 しかし続きは紗霧の予想とは違って…。
「俺は今でも紗霧が好きだよ」
 その一文が続きに書かれていた。紗霧の気持ちが激しく揺さぶられる。
 それじゃあ、あの時高島理美が「貴志くん」と呼んだのは?
「紗霧が高島さんを叩いてしまったと聞いて、驚いた。同時に勝手な妄想をしてしまったんだ。
 もし紗霧が今も俺を想ってくれているなら…って」
 そうだよ。私は、今でも…。
「高島さんの名誉のために弁明しておくと、彼女は今、弟の悟志と付き合ってるんだ。だから、一緒に紗霧を探していてくれただけなんだよ。
 声を掛けて、紗霧に嫌な思いをさせてしまったって、すごく落ち込んでた」
 高島さんが「貴志くん」って口にしたのが、どうしても受け入れられなかった。彼を貴志くんと呼ぶのは自分だけなんだと、どこかで思い込んでいた。高島さんが彼の隣にいるんだと、それだけの時間が過ぎてしまったのだと考えたら、頭が真っ白になってしまった。
 それは誤解だったらしい。誤解であったところで意味はないのかも知れないけれど。

「紗霧と過ごした毎日は、俺にとって宝物だったよ。ずっと一緒にいられるんだと…一緒にいたいんだと思ってた。
 紗霧がいなくなってからも、それは同じだったんだ」
 私も…だよ。それが叶わなくて、苦しくて、こんなにも傷が増えてしまった。
 それでも…あの頃はどうしても貴志からの連絡に応じることができなかった。
 私は自分で選んで、彼から離れてしまったんだ。彼の気持ちを、ちゃんと自分から切り離さないといけないと思った。自分から離れておいて、彼の心を縛り続けるなんて、許されないと思った。
 でも…それなら、ちゃんと「別れの言葉」を言うべきだったんだ。
 貴志が今も想ってくれている。それはとても嬉しいことだった。でもそれはきっと貴志にとって、とても不幸なことなんだ。それはきっと、私が彼の心を縛り続けてきたせいなんだ。
「ごめんなさい…ごめんなさい」
 乱雑に、ちぐはぐな長さで切られた前髪の奥で涙が溢れる。
 心も、行動もちぐはぐな2年間だった。私は、貴志くんにすごく辛い時間を過ごさせてしまったのかも知れない。

「もしこれが俺の思い上がりなんかじゃなくて、紗霧が今も俺のことを想ってくれているのなら…」
 その一文に胸が締め付けられる。
 想っているよ…。大好きだよ…。側に、いたいよ。いて欲しいよ。
「もしも想っていてくれたなら、俺はとても嬉しい。
 でもそれは紗霧にとって、すごく不幸な事だと思うんだ」
 同じだ、私と。同じだ、あの頃の貴志くんと。
 自分自身の気持ちよりも、私のことを大切にしてくれた。あの頃の彼のままだ。
 読みたくない。続きなんて読みたくない。ここで読み終えてしまえば、まだ幸せな気分のままでいられる。それなのに。
 文字の中の貴志を感じていたくて…。
「俺は紗霧を好きになって、本当に幸せだったよ。本当に本当に幸せだったんだ。
 でも…だから、俺がいた事であんなにも紗霧が傷ついて、辛い思いをして。
 それが自分自身で許せないんだ。俺のせいで本当にごめんなさい。
 昨日もし中華街で会えたなら、直接謝りたくて。でも会えなかった」
 会えなかったんじゃない。私が逃げたの。そして見つからないように隠れてた。
 高島さんを想ってるであろう、貴志くんと会うのが怖くて…逃げたんだ。

「もしも紗霧が、今も俺を好きだと思ってくれているなら、そんな不幸な気持ちに縛り付けているのは、俺のせいかも知れない。
 俺がずっと紗霧を忘れられないから。俺の想いが紗霧を縛り付けているのかも知れない」
 そんな事ない。私は、貴志くんを好きなままでいたいんだよ。たとえ会えなくても、この気持ちが健全なものじゃなくても。
 想っているだけで、幸せなんだ。

 じゃあ…どうしてそんなボロボロの髪型にしているの?
 どうして顔を隠しているの?何を怖がっているの?どうして彼に返事を返さなかったの?
 自分自身が問いかける。
 いつしか貴志への想いは、自分のためのものでしかなくなっていた。
 会えない彼に出来ることはたったひとつしか無かったというのに。
 ああ…読まなくても続きがわかってしまう。

「俺にはもう紗霧のためにできることがないんだ。俺が紗霧を想っているだけで幸せなのは、俺のためで紗霧のためじゃない。
 俺が紗霧にできることがあるとしたら、それはもう…忘れることだけなんだ」
 貴志くんならこう思い、こう綴るだろう。そう思ったままの文章が書かれていた。
 一言一句違わず。その行間、句読点の使い方すら違わず。
 そんな癖も考え方も全部わかってしまうくらいに…大好きだったんだ。
 涙が溢れてくる。嫌だ。彼の心の中にずっといたい。

 私の心の中にずっと貴志くんを閉じ込めていたから、貴志くんは私から解放されなくて…ずっと苦しんできたんだ。
 あの時すれ違った長髪の男の子。あれがもし貴志くんだったら?
 彼はどうして顔を隠してしまったの?
 あんなにも綺麗で、あんなにも愛おしい顔を。
 私の…せいだ。私がいなくなってしまったことで、彼は…。

「俺は紗霧の事を忘れる努力をするよ。あの時出来なかった、ちゃんとしたお別れをしよう。
 ありがとう、紗霧。紗霧を好きになって、幸せだったよ。
 どうか素敵な恋をして、俺といた時なんかより、もっともっと幸せな時間を過ごしてください」
 貴志から綴られた言葉はそこで終わっていた。そう終わり。
 言葉も恋もピリオドが打たれてしまった。
 腹部の傷がズキズキとうずく。傷が、心が痛い。
 素敵な彼のことだ。きっと高島さんでなくても、すぐに彼を想う人に出会えるだろう。
 彼に愛されて不幸になる女子なんているわけがない。
 だって、だってこんなにも苦しいんだから。いい恋じゃなければきっと、こんに苦しい思いはしなくてよかったんだ。
 私は、彼の傍にいられて幸せだったんだ。
 涙が止まらない。いつまでもいつまでも流れ続ける涙を紗霧は止めることが出来なかった。

 涙も、貴志ヘの想いも。止めることはできないままだった。

 修学旅行最後の一日が始まった。

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