【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第74話-梅雨が来た〜二人の少女

 初めて好きになった人から告白された。美しい夕焼けの下、二人で並んだ帰り道。
 紗霧は高揚する気持ちに反して、少しの後悔を抱いていた。
「先に言われちゃったな…」
 紗霧は口の中でもごもごと言葉にならない想いを口走った。ため息ほどの音量もない言葉は宙を泳ぐこともなく、紗霧の心の中だけに沈み込んで溶けていく。
 ふと隣に目線を送る。貴志の顔が見たかった。
 どうして人間の目は前についているのだろう。横ならば歩きながらでも、貴志の顔をずっと見ていられるのに。
 貴志の顔が見えたと思った瞬間、彼と目が合った。
 恥ずかしくなって紗霧は目を逸らしてしまうのだった。
「大丈夫だよ…俺も、恥ずかしいから」
 ぎこちない貴志の声に、紗霧はくすくすと笑う。今こうして貴志の隣を歩いていることが嬉しすぎて、笑いが込み上げてしまう。
「人の目が前にしか付いていないのは、たぶん隣を歩いてる大切な人と、同じ景色を見るためなんだと思うよ」
 心を読まれた?紗霧は再び貴志の顔を覗き見た。また目が合う。どうやら貴志はずっと紗霧を見つめていたらしい。
 同じ景色、同じ未来をこの人と歩みたい。紗霧は前を向くと、指先で貴志の手の甲をツンツンとつついた。

 何度かつついたところで指先に伝わる感触が、柔らかく変わる。今度は指先でなく、手のひらで触れてみる。手の甲はいつの間にか手の平になっていたらしい。
 後は指を曲げるだけで貴志の手を握ることができる。でもできない。恥ずかしすぎる。
 しばらく二人は手のひらを合わせた状態で歩いていた。
「北村くんは明日どうしてるの?」
 告白は先を越されたから、お出かけのお誘いは自分から。意を決した紗霧の言葉を受けて、貴志は恥ずかしそうに答える。
 「朝からトレーニングして、午後は勉強かな」
 つまり午後は時間が取れるのかな?紗霧にとって勉強は当たり前。勉強している時間はイコール暇だと捉えていいと思った。
「じゃあさ、会ってお話とかできる?どこか行かない?」
 気合を入れてデートの提案をする。声に力を込めた拍子に、手にも力が入っていたらしい。
 気がついたら貴志の手を握っていた。恥ずかしい…けど、もう離さない。離したくない。
 貴志も紗霧が握った手を離そうとしない。手汗いっぱいの手で恥ずかしいのをこらえて、貴志はその手を握り返した。
 初めて握る好きな人の手は柔らかくて、温かくて、離れがたい。もっと一緒にいたい。もっと…それじゃ足りない。
 ずっと一緒にいたい。少しでも、1秒でも長く。紗霧が誘ってくれた以上、貴志に断る理由など世界中探したって見つからなかった。
「どこにしようか?」
 そう言いながらスマートフォンを取り出すと、貴志の顔が一気に曇る。
「今晩から雨だって」
 雨が降ることは会わない理由にはならない。雨でも会えるところを考える。そして坂木さんの楽しめるところ。
 頭をフル回転させて貴志が捻り出した答えは、図書館だった。
 あまり話すことはできないけれど、中学生の小遣いで雨の日を過ごすにはピッタリの場所だと思った。
 こうして二人の初デートは図書館に決まった。

 夜が明けて、約束の時間が迫ってくる。悩むに悩んだ末に選んだ服を身にまとい、図書館の入口で紗霧を待った。
「おはよう」
 一分もしないうちに紗霧の声が聞こえて、貴志の鼻腔にバラの香りが充満した。甘くて柔らかな香りに脳が溶けそうになる。
 白ブラウスにうすピンクのロングスカート。丈の短いカーディガンにポシェットを肩がけにしている少女が目の前に立っていた。
 おとなしい配色の服装も、紗霧が着ると輝いて見えるから不思議なものだ。
 目の前に、恋人になった紗霧が私服で立っている。
 貴志は胸が躍るのを感じていた。可愛い。可愛すぎる。ああ…可愛い!
「可愛い…」
 昨日から付き合ったばかりの彼氏の口から唐突に漏れた褒め言葉に、紗霧は息を飲んで目を瞬かせた。
 あ…!
 貴志はそこで自分の言い間違いに気がついた。
「ご!ごめん…。おはよう、おはよう!おはようなんだよ!」
 挨拶と間違えて心の声をそのまま出してしまった。貴志の慌てぶりがなんだかおかしくて、紗霧は口に手を当ててくすくすと笑っていた。
 嬉しい…。可愛いと思って欲しくて、ものすごく頑張った甲斐があったな。

 図書館の中では終始静かに過ごした。デートと言えど場所くらいはわきまえる。ほとんど口を開くことなく、紗霧は詩集に読みしれていた。貴志が手に取っている本は「相対性理論」らしい。ムードも何もあったものじゃないけれど、そこが北村くんらしいな。
 沈黙が苦痛にならない。向かい合って本を読む時間が静かに流れていく。
 紗霧は貴志の知的好奇心を、貴志は紗霧の文学的探究心を、お互いに邪魔しないように目の前の本と向き合っていた。
 本を読むときの目線、癖、そして沈黙により相手を尊重する態度。会話はなくとも空気感がお互いの心を雄弁に語ってくれた。

 帰り道、お互いの読んでいた本を話題に盛り上がる。
「坂木さんの読んでいた詩集、面白そうだよね。ものすごく集中して読んでたし…。
 俺も小説とか読んでみようかな」
 おすすめの本はある?などと聞いてみる。紗霧は和製ヒロイックファンタジーの元祖ともいえる作品を答えてみせた。
 純文学ではなく、戦記物を勧められたことに貴志は驚いたが、あらすじを聞いて胸が躍った。
「北村くんも、本当に数学とか物理とか好きだよね。
 確かに授業とかでも興味深いとは思うけど、のめり込むきっかけになった本はあるの?」
 紗霧の問に貴志は幼少期の話をした。父に教えてもらったいろいろな事を。
 空に小さく散りばめられた星たちが、それぞれ太陽のように輝いていること。それぞれの恒星が惑星を持っていて、その中のどれかには人が住んでいる可能性があること。
 遠く離れた星たちから光が届く理由とか、それでも音は聞こえない理由とか、いるかも知れない異星人と生涯出会うことはない理由とか。
 そういうものを教えてくれるのが物理と数学なのだと。
「今度小学校の時に読んでいた本を教えるよ」
 小学生でも難しい本を読んでいたんだろうな。でも北村くんの見ている景色を、もっと見たいな。紗霧は頷くと、貴志の横顔をのぞき込んだ。
 
 雨の中、2人の傘が並んで咲いている。ふと、紗霧の傘がしぼんだ。紗霧は貴志の傘に滑り込むとにっこり微笑んだ。
「傘が邪魔で顔が見えなかったから」
 貴志の心を、愛しさが満たしていく。抱きしめたい衝動は、傘を理由になんとかこらえることができた。いや、そもそも手を繋ぐのでも手汗が止まらないのだ。緊張して、できもしないことを、傘のせいにして貴志はなんとか平静を保つ。
「俺が前を見てるから、ずっと俺のこと見ててくれても良いよ」
 そう言って静かに、ゆっくりと歩を進める。
「だって、今まで俺が坂木さんを見てきた時間のほうが絶対に長かったんだから」
 ぼそっと漏れた貴志の言葉を紗霧は聞き漏らさなかった。
 傘を打ちつける静かな雨音。傘の下は心地よい二人の時間だけが刻まれていた。

 2年後。貴志の目の前にいるのは紗霧ではない少女だった。
「俺の顔を見るな。問題を見てろ」
 貴志は目の前で勉強している少女を、ぶっきらぼうに突き放した。
 机を挟んで向かい側。瑞穂は頭を抱えて唸っている。地響きのような唸り声の後、頭をかきむしって今度は大きく叫び始めた。
「わかんないよぉ!」
 問題が解けずにやきもきしている福原瑞穂に、貴志はため息をひとつ。
 問題文を指差して少しずつ瑞穂の理解できていない部分を指摘していく。
「ここの基礎は教えてるから、後は使い方の問題なんだ。確かにここはその、使い方が難しいんだけどな」
 そう言って、ルーズリーフに「使い方」と言った部分を箇条書きにしていく。
 悪態をつきながらも、貴志は瑞穂に理解できるように基礎を教え、瑞穂の癖を見極めて応用の仕方を教えている。
 たった2時間で瑞穂は驚くほどに数学の理解度を上げていた。
 もうすでに中学卒業レベルの数学力は身につけている。後は進学校受験レベルまで引上げるだけだ。思ったより早く、他の科目に移行できそうで、貴志は少しほっとしていた。
 福原は思ったよりも学力が高いらしい。これなら受験にも間に合いそうだ。
 少し…ほっとした?貴志は自分の心に問いかける。何でだ?
 昼からと言えば昼前に訪れ、人のペースを乱しまくる福原。福原が自分なしで勉強できるようになることをどうして心から歓迎できない?
 どうして少しだけなんだ。福原が自分で勉強きて、うちに来なくなるなんて、大歓迎なんじゃないのか?
 顔が見えないように伸ばされた前髪。その奥で貴志は目を白黒させていた。
 どうもおかしい。梅雨の湿度が心をそうさせるのか?
 胸の鼓動が強く感じる。この鼓動の打ち方はまるであの日の図書館みたいじゃないか。
 そんな事…あるわけがない。

 ふと視線を瑞穂に向けてみる。目が合った。
 どうやら瑞穂はずっと貴志の顔を見ていたらしかった。
「だから…俺じゃなくて問題を見ろよ」
 呆れてため息が漏れてくる。
 二年前一緒にいた少女は、本に集中しながらも貴志の顔をしっかりと見つめていた。
 今一緒にいる少女は、貴志の顔に集中しながらも、問題を少しずつ解いていた。
 なぜか二人の少女の面影が重なったような気がして、貴志は目をこする。
 
 紗霧と瑞穂。貴志と机を挟んで座った、たった二人の少女。
 性格も違う。見た目も違う。趣味嗜好も全然違う。ただ二人の間の共通点といえばたった一つだけ。
 休日に貴志と二人で会って、机を挟んで向かい合ったのは、紗霧と瑞穂のただ二人だけ。
 貴志は瑞穂を、紗霧と同等に扱っていることにまだ気づいていなかった。

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