【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第58話-夏が来る〜貴志と紗霧の2年前①

 林間学校を終えた如月中学校は、慌ただしく実力テストの準備期間に差し掛かっていた。
 昨日までの仲間はすべてライバル。毎回のテストが来年のクラス分けに影響してくる。
 わざわざ私立中学校の受験をしたくらいだから、生徒たちは必然的に中高一貫コースに進むことを目標としている。
 その資格を得るのは7クラス中でたった2クラスのみ。成績順でクラス分けされる以上、授業のレベルもクラスにより分けられている。すなわち2年生で下位クラスにいれば下克上は極めて困難。
 如月中学校に入学すると、1年生の1学期からすでに受験の競争は始まっているのである。

「だあ!だ〜か〜ら!なんだよ作者の気持ちって!」
 放課後の教室で頭をかきむしって、山村裕が絶叫している。どうも感覚的に解けない国語は得意になれないらしい。
「それな…。全文読んで答えろならわかるけど、抜粋された文章から読み取れって設問はおかしいよな。
 それだと、設問者の意図を答えろ…だろ」
 冷静に突っ込む貴志の言葉に、裕は口をあんぐりと開いている。
 思ってた返しと違う…。出会った当初からわかってはいたが、貴志と自分では地頭の次元が違うらしい。
 作者の気持ちなんかわかるか!と言いたい裕には、貴志の相槌すら理解できない。
「いやいや、俺はむしろ裕みたいに瞬発力で問題を解く事ができないんだ」
 貴志はキーワードやヒントといったパーツを組み立てて理論立てた解答をする。裕はその組み立て作業を経ないで解答を導くことができる。動物的な勘と本人は言っているが、問題をみた瞬間に答えを導いてしまう本能など、貴志には備わっていない。
「裕の方が別次元だよ」
 反面、裕の弱点を貴志は看破している。設問から解答までの最短経路を感じ取る能力がある分、引っ掛け問題にはものすごく弱い。
 それと国語のように「気持ち」とか「意図」などといった解答をせまられる科目は、裕にとって鬼門になっていた。
 会話でのコミュニケーションは得意だから、あとは読解力の問題なのだろうが…。
 それは貴志も得意ではないため、裕に教えることができないでいた。

 ガラリと教室の引き戸が開かれた。
 貴志には、入ってくる気配でそれが誰だか見ないでもわかった。
 静かな足音。ふわりと動く風。優しく広がる柔軟剤の香りが鼻孔をついた。
 その全てが、坂木紗霧その人であることを肯定している。鼓動が少し急ぎ足になった。
 進路指導室で講師を着けて受けられる個別指導。それを終えて戻ってきたらしい。
 貴志は大きく鼻で息を吸い込んだ。その香りを、彼女の空気を。
 そんな素振りを1ミリも見せずに、落ち着いた態度で貴志は紗霧に声をかける。
「坂木さん、今日も個別指導お疲れ様です」
 振り返りもせずに名前を呼ばれて、紗霧は一瞬足を止めた。
「顔も確認しないで名前を呼ばれるのって、結構怖いよ」
 そう言いながらも紗霧の機嫌は良さそうだ。口元が少し緩んでいる。貴志がもっと怖いことをしていたことには気付いていないようだった。
 林間学校の夜に二人きりで眺めた星空。あの時の歩みで歩くリズムや足音を覚えたのは、貴志だけではない。
 紗霧も貴志の足音だけで、彼と気づくことができるだろう。
 足音だけじゃなくて、呼吸のリズムですら聞き分けられるかも知れない。
 そんな事を考えていたら顔が暖かくなってきて、我に返る。
「二人もこんな時間まで勉強?お疲れ様」
 何事もないような素振りで、紗霧は向かい合って勉強する二人のノートを覗き込んだ。
「国語の…なるほどややこしい所だね」
 そう言えば林間学校前に、北村くんから今度国語を教えて欲しいって言われてたっけ?
 トホホ…と涙がちょちょ切れた顔を見せる裕に向かって紗霧は静かに微笑んだ。
 貴志を振り返って、
「王子様が今度って言ってたのは、今でもいいのかな?」
 少し皮肉っぽく言ってみる。みんなに優しい王子様ではなく、林間学校で見せてくれた等身大の北村くんの隣にいたい。
 そんな紗霧の小さな願いが伝わる様子もなく…。
 貴志は裕に負けないくらいに、トホホ…と涙がちょちょ切れた顔を見せた。
「王子様って呼ばれるのは心外なんだよ」
 坂木さんにだけは王子様でなく、北村貴志と呼ばれたいのに。
 そんな貴志の願いが届く様子も感じられない。がくりと頭を垂れる貴志だった。
 それでも勉強を教えてもらう間は、傍にいられる。
「よろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げた貴志に、ニンマリと笑みを浮かべて、紗霧は軽い所作で席に着くのだった。
 勉強を教えている間は、北村くんの傍にいられるんだ。そう思うと、心が弾むようだった。

「この問題の解き方を説明しても、応用できないと意味がないから…別の例えから始めようかな」
 そう言って紗霧は自分のルーズリーフを取り出した。そしてスラスラとペンを走らせる。
「北村は山村に勉強を教えていた」
 そこに綴られていたのはたった一文。今の二人の状況だけだった。
「動詞、形容詞で説明されるだけの一文は、説明してるだけで意図が含まれないよね。
 でも…こうやって…」
 紗霧が行間を広く取りながら言葉を足していく。ただの動詞に世界観が付け足された。
「受験生の二人はいわばライバル同士。お互いを出し抜いてでも、推薦枠を奪い合いたい関係にも関わらず」
 この文章を足すだけで、勉強を教えることに何かしらの緊張感が生まれる。
 ちなみに貴志と裕の今の状況を例文に挙げたのは、裕が直感的に理解しやすいようにとの配慮らしい。
 裕もゴクリとつばを飲み込み、紗霧の説明を待っている。 
「読解の時の肝は、この世界観の部分を見つけることなの。
 誰かが何かをしてる。それだけだとただの風景描写。でもその人にスポットを当てた瞬間に、その人の意思が浮かび上がってきて…」
 身振り手振りで説明しながら、紗霧は二人に紙を見ないよう手で合図した。
 二人の目線が逸らされたのを確認して、文章を足していく。
「その人の意思や意図に対する説明がさらに加わることで、その文章に込めた作者の意図がわかるようになるんだよ」
 貴志と裕が振り返ると、ルーズリーフに2つの文章が足されている…らしい。紗霧は片方ずつ手を置いてそれを隠している。
「さて、北村くんが山村くんに、ライバルにも関わらず勉強を教えている。その理由は?
 私が作者で、テーマを裏切りって設定してると…」
 紗霧が右の手を上げる。そこに書かれていたのは…。
「北村は勉強を教えながら、少しずつ誤情報を混ぜていく。巧妙に仕組まれたその知識のもつれは、テスト本番で山村のミスを誘発させるためのものだった」
 そうして友達を出し抜こうとする様が描かれていた。それを見て裕が貴志の横顔を確認する。
「貴志…まさか?」
 いや、そんな愕然とした顔をしなくても。紗霧はガクガクと震える裕を見て、クスリと笑みを漏らした。
 貴志も表情こそ落ち着いてはいるものの、手をパタパタとさせて例文を否定している。
 北村くんも慌てるんだ…。貴志の所作が可愛らしく思えて、紗霧の笑みが笑い声へと転じていく。
 二人の友情は紗霧が想像していたよりも固いらしい。夫婦のようなやり取りが少し羨ましい。
「もうひとつの例文が残ってるよ。
 もしも作者がこの文章で友情をテーマにしたかったら、続きはこうなるの」
 紗霧が左手をどけると、そこには…。
「北村にとって山村は、進路や将来を犠牲にしても構わないと思える程に、大切な友達なのだ」
 それを読んだ裕が、目頭を抑えてそっぽを向いた。
「貴志、お前やっぱり…やっぱり…」
 どうやら本当に泣いているらしい。思っていた以上に感動屋の山村裕に、紗霧は再び笑みを浮かべた。
 貴志は裕の肩を叩くと、さっきと同じように否定のジェスチャーをしてみせた。
 その顔は少年らしい、悪戯な笑顔を浮かべている。
 裕がすねたような顔で、貴志の肩をバンバンと叩いた。
 二人の姿を紗霧は羨ましそうに見つめている。出会ってから2ヶ月程度の二人とは思えないくらいに、固い友情がにじみ出ていた。
 紗霧はちらりと貴志の表情を確認した。彼の照れ隠しのサインを見逃さないようにしようと観察する。だけど、サインを見つけるよりも早く…恥ずかしさがこみあげて、目を反らしてしまうのだった。
 こほん…。軽く咳払いをしたのは、自身の照れ隠し。
 紗霧の咳払いに隠された「照れ隠し」を読み取ることができずに貴志は紗霧を注視した。山村もそれに続く。
 紗霧はルーズリーフに描いた文をなぞりながら、話をまとめていく。
「ある行為が書かれた文があったとして、そこに繋がる文章が見つからない時は、ただの風景描写。
 喫茶店で男がコーヒーを飲んでいる。って書いてあるだけで、その喫茶店に他にお客さんがいることが説明できるよね。
 でも風景じゃなくて、人物を描きたい場合は…」
 真ん中の文章に紗霧が、指で丸を描いた。
「こんなふうに、必ずその行為を説明する文章がついてくるの」
 さらに最後の2文を指で指し、
「その説明から繋がる文章に、作者が書きたかったものが隠れているんだよ。だってテーマが違うだけで、結末が全然違うでしょ?
 これを応用すると…」
 最後に紗霧は、裕が読んでいた問題文を指でなぞっていく。
 最後の三行で指を止めると、裕の目がパッと明るくなった。
 貴志も感心した表情で頷いている。
 どうやら貴志にも裕にも説明が上手く伝わったらしく、紗霧はホッとした顔でため息をついた。

 さらに二人に聞かれるがままに、読書のコツなどを話している間に、かなりの時間が経っていたらしい。
 窓が黄金色に輝き始めていた。
 まだまだ話し足りない。と、言うよりも…。
 もう少しだけそばにいたいなあ。
 王子様ではなく、北村くんの言葉で誘われたい。
 あの林間学校の夜みたいに。

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