【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第18話-春、修学旅行前夜〜裕

 瑞穂を家まで送る。たったそれだけの道のりでも、裕にとっては楽しくて仕方がない時間だった。夕日の赤が照らす顔は夕日よりも赤い。二年ぶりの感情に、自然と心が踊りだす。
「裕、なんで踊ってるのよ」
 体も踊りだしてしまったらしい。立ち止まった瑞穂がチベットスナギツネのような目でこちらを見ていた。
「瑞穂と帰るのが嬉しすぎて、喜びが体から溢れ出たんだよ」
 笑いながらそう言ってみる。冗談交じりに言っているが、九割は本気だった。笑ってくれればよし。照れてくれたら100点だ。引かれたら…帰って泣こう。
 瑞穂の横一文字の目がまんまるに開かれた。かと思うといつもの大きさまで戻って、その中の瞳が定まらなくなる。顔は夕日と朝日と赤信号を全部混ぜて赤ペンキをぶちまけたぐらいに赤く染まる。
 内心でゴールを決めたサッカー選手ばりのガッツポーズを決める裕。
 ところが、瑞穂の口元は固く結ばれている。結ばれた口が波打ち始め、やがて「ブハッ」と派手に吐息が爆発する。
 こらえきれなくなった笑いが吹き出てくる。それはもう火山がマグマを吐き出すようだった。手足をばたつかせて、うひゃひゃひゃひゃと笑い転げている。
「あの瑞穂…さん?そこアスファルト、ここ、外」
 本当に地面で笑い転げ始めた瑞穂にバレないように、裕はふとため息を漏らした。さっきの顔の赤さの一割でも照れがあればよしとするか。
 全身ホコリまみれで立ち上がる瑞穂の背中を叩いてやる。
 ベッドタウンの住宅地街に空いた隙間のような空間。如月町には田園風景を縫うように人々の生活の場が展開されていた。今まさにその隙間で転がった瑞穂の制服は想像以上のホコリを吸い込んでいた。
 巫女のような和服ベースのデザインを施された、白い制服が砂埃で茶色く染まっている。一見膝までのスカートに見える、袴スタイルの黒いパンツに至っては真っ白だ。
 裕の手が背中のホコリを叩き出し、お尻へと伸びていく…ペチ!瑞穂の手がそれを払いのける。
「コリャ!そこはいかんぜよ」
 その一言でようやく笑い声が止んだ。瑞穂の顔は笑ったままだ。向き合ってお腹をさすりながら満面の笑みを向けてくる。
「まったく油断ならないヤツなんだから」
 背中を叩きながら徐々に手をおろしていき、目で行くぞ行くぞとツッコミ待ちの合図をしたうえでおしりに伸ばされた手。最初から裕が、触るはずないとわかっていたから、嫌悪感は生まれてこなかった。でもそれは瑞穂の目線での話。裕はと言えば…
「いやあ、今なら触っても言い訳できるかな?って思って」
 そんな事を言うものだから、瑞穂の目が不審の色に染まる。もう一度チベットスナギツネのような横一文字のジト目が裕に突き刺さった。

 実を言うと裕も最初から触るつもりはなかったのだが。それでも触りたい衝動には駆られるものだ。なんとかギリギリで我慢しているだけのそれを、信頼されてしまってはいつかそれを裏切るような事をしてしまうかも知れない。
 それでも普通ならば、後半の欲の部分はなかったかのように振る舞うものだ。わざわざ口に出してしまう裕の正直過ぎるところに、瑞穂は再び笑いがこみ上げてくる。
「ああ、お腹痛い」
 笑いすぎてねじ切れてしまいそうな腹筋をさすっている瑞穂を前に、バレないように裕は右手をキュッと握りしめていた。
 背中とはいえ、瑞穂の体に触れてしまった。それはそれで裕には大事件なのであった。だって女子の体に触れたんだぞ!女子だぞ!しかも瑞穂だぞ!瑞穂って言ったらあなた、今やオレにとって世界一かわいい女子なんだぞ!
 心の中で鳴り響くファンファーレ。舞い上がり再び体が踊りだすのをグッとこらえて、咳払いをする。
 それを合図に瑞穂も笑うのを止める。
「裕といると笑いすぎて腹筋割れちゃうわ。
 もうカッチカチやで」
 瑞穂の年齢では知らないはずの筋肉芸人のネタを口走る。
「腹筋割れてモテなくなったらどうしてくれんのよ」
 口を尖らせて瑞穂が詰め寄る。いや瑞穂、顔が近いって。ああ!もう!
 裕がのけぞって、そして瑞穂に背を向ける。あのまま目の前に瑞穂の顔があったらさすがに衝動に勝てなくなりそうだった。ああ、キスしたい!
 気持ちを落ち着けて、瑞穂に表情が見えないように気を付けて大きく深呼吸。
「その時は…責任取ってオレが付き合ってやるよ」
 裕にとってはやっとの思いで絞り出した言葉。しかし瑞穂は再びアスファルトの上で笑い転げてしまうのだった。
 
 バレないように肩を落とす。何を言っても冗談にしか聞こえていない。これはマズいぞ。恋心の対象とは思ってもらえないかもしれない、恐怖。
 裕だって怖いのだ。人を好きになること。そしてその相手が振り向いてくれないかもしれないこと。その苦しみは、二年前に嫌と言うほど味わったから。
 怖い。冗談交じりでなく、本気で想いを告げた時に「キモい」なんて言われたら、立ち直れないかもしれない。
 それでも瑞穂が好きだ。普段動物的な勘がひらめく裕だったが、自分の色恋沙汰には何一つとして感性の扉が開かれないのだった。
 それを証拠に裕は気づいていなかった。なんとか起き上がった瑞穂が裕の肩をバンバンと叩く。その顔が笑いではない色で赤く染まっていることを。
 裕は気づいていないのだった。
 そっと日が暮れていく。

 瑞穂の家から背を向けて、一人の帰り道を歩き出す。さすがに裕だって、一人の時までふざけるようなことはない。
 いや、いま特大の放屁をかまして、それを合図に走り始めた。ジェット噴射のつもりだろうか。
 息が切れた頃に立ち止まる。喘鳴の奥に隠して嗚咽。涙がこみ上げてくる。今なら誰かに苦しそうな顔を見られても、全力ダッシュのせいに出来る。日の沈んだ田園風景の暗闇の中で一人、誰にも見られないように裕は泣いた。
 家に帰れば弟と妹が待っている。家族の前ではまたふざけた少年の仮面をかぶるのだ。彼が泣ける時間は、息切れが元の呼吸に戻れるまでのほんの少しの時間だけ。
 悲しくて泣くわけじゃない。まだ瑞穂に、好意を拒否されたわけではない。まだ脈がないと決まったわけでもない。
 瑞穂と話すことが楽しくて仕方がなかった。そんな時間を得られた事が嬉しくて仕方がない。こんな気持ちになれたのは、坂木紗霧以来初めてだったのだから。
 今が幸せでしょうがない。世界でトップクラスにかわいいと思える瑞穂。そんな彼女が、貴志の心にも触れようとしている。彼女が現れて、貴志の表情は柔らかくなった。それを周りにバレないように振る舞う貴志を見ていると、心から嬉しいのだ。
 瑞穂がいることで、紗霧との別れで鎖に繋がれていた二人の心が、少しだけ解き放たれた気がするから。
 この時間がいつまでも続いてくれたら。心からそう思う。しかし卒業まであと10か月しかないのだ。この時間にはタイムリミットがある。今の幸せが怖い。なくなることが不安で仕方ない。
 また坂木紗霧を失った時のようになってしまうのが、怖い。
 坂木紗霧が好きだった。紗霧が、貴志と付き合い始めてからもずっと。
 坂木紗霧が本気で好きだった。
 静かで細くて脆そうな坂木紗霧が好きだった。綺麗で可愛くて自分を持っている坂木紗霧が好きだった。泣き顔が守ってあげたくなる坂木紗霧が好きだった。笑顔が抜けるように透明だった坂木紗霧が好きだった。
 だけど…紗霧がいなくなって自分を見失って、今のようになってしまった貴志を、目の前で見てきたからこそ思う。紗霧を失って、裕はなお自分を保ってしまったのだ。
 オレの「好き」なんて、貴志の想いの深さには全然かなわない。
 
 福原瑞穂が好きだ。明るくてかわいい笑顔の彼女が、とても好きだ。怒っていてもちゃんと相手の内面を見ようとする彼女が、とても好きだ。彼女なら貴志の本当の笑顔を取り戻せるんじゃないか?そう思わせてくれる彼女が、とても好きだ。
 貴志の何重にも閉ざされた心のドアを、あっさりとひとつ開けてしまった彼女が、とても好きだ。
 瑞穂は貴志を好きになるだろうか?案外すでにそうかもしれない。だとすれば、それは本心から嬉しい。自分の恋が叶わなくなることは悲しいが、それでもオレは「あの時」みたいに瑞穂をずっと好きなんだろう。
 貴志は瑞穂を好きになるだろうか?だとすれば、今度もきっとオレの好きなんて、貴志の想いの深さには全然叶わないだろう。
 その時には気持ちを伝えることもできなくなる。二人の邪魔にならない今しか、今だけしか気持ちを伝えるチャンスはないだろう。

 決意を固めてスマートフォンを取り出す。貴志へのメッセージを打ち込んで、送信ボタンを押した。
「修学旅行の自由行動、30分ほど隼人の面倒を見ててくれないか?」
 その一言が風に乗って運ばれた。

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