【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第26話-春、修学旅行1日目〜理美②

「ねえ、貴志くん。ひとつ聞いても良い?」 バスのエンジン音にかき消されないように、理美は貴志の耳元で囁いた。
「どうしたの?」
 貴志も小声で返す。いくら街の騒音やバスの音にかき消されようとも、昔の口調に戻っているのだ。今の口調を、周りに聞かれたくはなかった。
「もし…もしもだよ」
 理美はためらいながら言葉を選んだ。結局いい言葉が見つからなくて、かなり直接的な聞き方になる。
「もし坂木さんに偶然会えたとしたら、貴志くんはどうするの?」
 思わぬ質問に貴志も驚きを隠せなかった。 もう何度考えて、心の中で首を横に振っては、胸のうちにしまい込んできただろう。
 今一番会いたくて、でも絶対に会うことのない人。彼女を想うと胸が辛くて、後悔ばかりで、それでも想い出の中の彼女はとても愛おしくて…。
 だからこそ。だからこそ何度考えても、答えはいつも同じだった。
「何もできないよ」
 貴志が前髪を耳にかける。久しぶりに見た貴志の目はとても悲しい色をしていた。
「俺のせいで紗霧は傷ついてしまった。 俺にできるのは、紗霧が幸せでいてくれることを祈ることだけだよ。
 だから…会えたとして、紗霧の今の幸せに水を指すわけにはいかないんだ」
 波のように何度も押し寄せてくるいくつもの感情を、理性で抑え込んで導き出した答え。
「もし坂木さんが、今も幸せに暮らせていなかったら?まだ貴志くんを想っていたら?」
 理美の言葉がナイフのように貴志の心をえぐる。貴志は苦悶の表情を浮かべていた。
「そんな不幸な事…あっちゃいけないんだ」
 紗霧が自分を想ってくれていたとしても、元に戻れるわけじゃない。二度と会うことのない人を想う。そんな不幸などあってはいけない。
「でも貴志くんの幸せは彼女なしにはありえないんじゃないの?
 彼女の傷も、貴志くんじゃないと癒やすことができないんじゃないの?」
 理美の声は穏やかだった。目の端には涙が溜まっている。同じ人を想った彼女。
 もし自分が同じ理由で貴志と離れることになったとしたら、その傷はたった1年半で癒えるものではない。下手をしたら一生癒えないかもしれない。
「それでも、俺には何もできないんだ。
 あれから半年、連絡を取ろうとしても一度も繋がらなかった。
 俺が連絡することが紗霧の傷口を広げてしまうかも知れない。忘れられるなら、その方が良いと思ったんだ」
 忘れられるはずがない。あんな目にあっても、大好きだった相手のことなど。
「私なら忘れないよ。それがどんなに辛い事でも、私は貴志くんの記憶とともに生きていきたい。
 あの時貴志くんと付き合っていたのが私だったら、今もきっとそう感じてると思う」
 貴志の本音を聞く日が来るなんて思ってもみなかった。まさかこんな事まで答えてくれるとは思わなかったのだ。
 貴志がどんな想いで坂木紗霧のいなくなった世界を生きてきたのか、痛いくらいに伝わってくる。きっとこの先誰かを好きになったとしても、届かないかもしれないくらいに、彼は坂木さんを強く愛したのだと。
 バスの揺れが治まった。信号待ちらしい。目的地が近いことをガイドがアナウンスしている。

「好きっていう言葉は、相手が自分を好きになってくれなくても…。
 例え自分以外の誰かを好きになったとしても、報われなくても、辛くても、相手にどんな秘密があっても…それでも好きじゃないと言っちゃいけない」
 理美が悟志から聞かされた言葉を呟くと、貴志はビクリと肩を震わせた。彼ら兄弟に、その父親が伝えた言葉だ。
「貴志くんは今でも坂木さんのこと、好き?」
 沈黙がその言葉を肯定する。貴志は俯いて前髪をかき分ける。恐らく理美がしたいという話の、とても重要な一節なのだろう。
 北村家の教育、いや貴志にとってその言葉はとても重いものだったから。だから沈黙で答えを返すのは、理美に対して失礼だと思った。理美はそれを知っていて、それでも聞いていたのだから。
 貴志は息を整えて、前髪を耳にかけて理美に顔をしっかりと見せた。
 まっすぐに理美を見つめる。そして…。
「好きだよ」
 苦しそうにそう呟くのだった。
 ああ…この言葉を、自分が言われてみたかった。気を抜くと溢れてしまいそうな涙をなんとか堪えて、理美は目を閉じた。
 これで心置きなく、貴志に想いを伝えられる。彼がどれだけの気持ちで坂木紗霧を想っているのか。怖いくらいに伝わってきた。
 目の端から堪えきれなかった一雫が流れていく。
 同時にバスが停車する。ガイドのアナウンスで到着が知らされた。貴志は慌てて前髪を下ろして顔を隠した。

 ふと理美が視線を貴志から外すと、前座席のヘッドレストの上に瑞穂の首が生えていた。
 真ん丸なクリクリとした目を数回瞬きして、首を傾げて二人の姿を見つめている。
「北村くんが理美ちゃんにキスして泣かせてる?」
 ずっと顔を近づけて話していたから、確かにそう見ようと思えば見えなくもない。
「違うよ、私がしたんだよ」
 理美が返すと、瑞穂の顔が赤レンガ倉庫よりも赤く染まった。夕日のようにシートの向こうに沈んでいく。
 やれやれ、後で誤解を解かないと。意外と騒がない瑞穂に驚きながら、貴志が首を振った。間違ってもこの誤解が、悟志に伝わってはいけない。
 人がいないところで話がしたい。理美の口からそう言った割には、かなり突っ込んだ話になった。それにまさか自分自身あそこまで正直に話すとは思っていなかった。
 でもはっきりと伝わってきたことがある。半日の間、彼女の取り続けてきたあざとい態度は、仮面なんだと。
 そして彼女がしたいと思っている話もだいたい想像がついた。
 きっと彼女は…。

 バスから足を下ろす。ここは、みなとみらい。
 自由行動が始まろうとしていた。

この記事が参加している募集

恋愛小説が好き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?