【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第59話-夏が来る〜貴志と裕の2年前

 坂木紗霧の短い授業を終えて、貴志は大満足だった。国語の理解が進んだし、何よりいつもの机の間隔よりも近くに紗霧がいたのだ。すぐそばに、いたのだ。
 裕にバレないように、余韻にひたる。
 
 裕は隣で、紗霧が雑談交じりに話していたポイントをマーカーで強調している。その姿を貴志は片眉を上げて観察していた。
 俺が教えても、メモひとつ取らないくせに。そう思いつつも、裕が教えたことをちゃんと覚えてることはわかっている。
 そう、この気持ちは単なるヤキモチだ。
 紗霧の細い指が、滑らかな動きで筆記用具を片付けていった。
 そんなに急いで帰ろうとしなくても…。貴志の目が恨めしそうな光を帯びる。
「今日はありがとう。暗くなるといけないから、送るよ」
 貴志が帰り際にそう声をかけるのも、もはや定番になりつつあった。変化があるとしたら、貴志に若干の下心が含まれるようになったくらいか。
 もう少し…1秒だけでも長くそばにいたい。そんなかすかな下心が。

「私は大丈夫ですよ、王子様。
 誘うなら等身大の北村くんで誘ってください」
 願いは紗霧には届かず、虚しく宙に散った。想い人はさっさと自分の席を振り返ってしまう。
 紗霧は椅子に置いていたカバンを手にとって、そのまま立ち去ろうとする。
 そんな紗霧の背中に、
「姫様、それでは私めが…」
 裕が声をかけるものの、こちらもあっさりと断られてしまう。
「私も、お姫様ではございませんわよ」
 そう言って振り返ると、紗霧は肩の高さで小さく手を振った。その手のひらはわずかに、貴志の方を向いている。
 教室を出た瞬間に、紗霧の口元が緩んだ。頭の中で何度も何度も、貴志の「ありがとう」を反芻しながら、紗霧は軽い足取りで帰路に着くのだった。
 今度は紳士的な言葉なんかじゃなくて、「一緒に帰りたい」って、言って欲しいな。
 皆の王子様じゃなくて、北村くんの言葉で誘われたい。
 ひとりになった紗霧がこぼした囁きが、オレンジ色の夕陽に吸い込まれていった。

 教室を出る坂木紗霧の姿を見送って、裕は立ち上がると「帰ろうぜ」と机を片付け始めた。
 紗霧に勉強を教えてもらえて、嬉しかった。それに机を挟んで接した彼女はいい香りがした。鼻腔から心を突き刺してきた、甘いのにどこか涼しげな香り。それは裕のとても好きな香りだった。
 忘れないように心に何度も何度も彼女の心地よい香りを刻み込む。
 そして感じたくない匂いも同時に嗅ぎ取ってしまったのだった。
 坂木さんは貴志が好きなんだな…。
 心臓がえぐり取られそうな程に胸が苦しい。その苦しみから目をそらすように、裕は紗霧の香りを反芻していた。

 学校の直ぐ側にある緑地公園を通り、貴志と裕は帰路についた。
 街灯の灯りは夕日に飲み込まれてあまりにも頼りなく、何も照らすことなく、ただ灯っている。
 木々に囲まれた園内は少し薄暗く、深緑の木々と、オレンジの空が作り出すコントラストは近代美術のようにも見えた。
 それは公園を歩く二人の、陰と陽の気持ちを描いているかのように見えた。
 ふと裕が足を止める。
「なあ、貴志」
 肩から下げた指定カバンの紐を強く握りしめて、裕が切り出した。
「貴志は初恋って経験したか?」
 裕の突然の問いかけに、貴志は目を丸くした。コイツ…俺の心が読めるのか?
 いつもより近かった紗霧の気配を反芻していたところにこの質問だ。勉強を教わっている間に、一瞬触れ合いそうになった二の腕をさする。
 初恋…もちろん経験している。今、まさしくその時だ。
 貴志は深く頷いた。
「裕はどうなんだ?」
 涼しい顔を装って聞いてみる。不安なのだ。裕の口から「紗霧」の名が出ることが。
 だからこそ、ここで確かめておきたい。
「そうだなあ。いっそ、せ〜の!で言い合うか?」
 裕はニカッと笑って、提案してきた。これならお互いに逃げられない。
 しかし裕も不安で仕方なかった。貴志の口から紗霧の名前を聞くことが。
 お互いに相手を心から信頼しているからこそ、不安は膨らんだ。
 もし同じ相手の名を出してしまったら、それはお互いにとって最大のライバルの登場を意味するのだから。
 そして同時に、無二の親友を失うのかも知れないのだから。
 二人は覚悟を決めて、しかしそんな素振りは見せることなく同時に深く頷いた。

「せ〜の!」
 そして沈黙。
 二人してずっこける。二人共あわよくば相手にだけ言わせて…などと姑息な計算をしたわけではない。
 相手の名前を口にしようとしたら、恥ずかしくて唇も喉も肺すらも動くことを忘れてしまったのだ。
 ため息をついて深呼吸。二人共大きく息を吸い込んだ。
「せ〜の!」
 一瞬の間を置いて二人の声が重なった。
「坂木さん!」
 重なったのは名前だけではない。二人共がいつもより半音高い声色で、しかし二人共が震えることのない強い音圧でその名を言葉に変えた。
 風に乗った言の葉が、二人の間で渦を巻いて取っ組み合う様が見えるようだ。
 お互いの耳に相手の声が届いて、二人共が理解してしまった。
 想いの熱量も、同じであることを。

 二人になにか超能力的なものがあれば、今二人の間にはその能力がぶつかって激しい火花が散っていたのかも知れない。そう感じさせるような長い沈黙。
 もし相手の口から、諦めてくれ…などと言われたら?
 申し訳ないが、それだけは出来ない。
 じゃあいっそ、この場を適当にあしらって、出し抜いてしまうのか?それも出来ない。そんなのは親友とは呼べない。
 紗霧の講義で例えられた通り、貴志にとって裕は将来と天秤にかけてもいいほど大事な親友だった。
 紗霧が説明に用いた例文は、怖いくらいに今の心情と重なっていた。

 受験も恋も、手に入れたいポジションを奪い合うという意味ではまったく同じ性質をもつ。
 裕を犠牲にして手に入れる恋に意味はあるのか?
 それじゃあ、裕に遠慮して退いてしまうような気持ちを恋と呼べるのか?
 どちらも否だ。
 受験ならば二人共という道もある。しかし恋はそうもいかない。もしその道が続く先があるとしたら、二人共が想いを遂げられない場合だけ。
 お互い水に流して終わりにするのか…。
「なあ貴志…」
 思考の迷路の中で、袋小路に陥った貴志に裕が声をかけた。
「もし友情と初恋を天秤にかけてるんだとしたら、オレはお前を本気で殴るぞ」
 裕の目は真っ直ぐに貴志を捉えている。刺すように鋭い目つき。しかし裕の口元は涼しげで、そして寂しげだった。

 今日感じたあの空気。きっと坂木さんは貴志が好きだ。
 貴志が坂木さんを好きだと言葉にした以上、オレは二人の邪魔でしかない。もう頑張りようがないんだ。
 しかし出し抜いて奪おうとは思わない。貴志をそんな事で親友と呼べなくなるなんてあっちゃいけない。
 しかしこのニブチンが坂木さんの気持ちに気づいてるとは思えなかった。
 どうせオレに変な遠慮をしてる。お互いそれで諦められるほど軽い気持ちの恋じゃないだろうに。
 だったらオレがやるべきことはひとつなんだ。
 これがきっと国語で言うところの作者の伝えたかった気持ちに当たるんだろう。
 それならオレが紡ぐ物語のテーマはこれだ。
「協定を結ぼうぜ」
 裕は貴志をまっすぐ見つめて、そう言った。貴志は固唾を飲んで、協定の詳細が語られるのを待った。

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