【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第50話-春、修学旅行3日目〜女子部屋の朝

 眠い…。河口湖の水面に昇る朝日を眺めながら、瑞穂は両目をこすっていた。まるで猫のようなその仕草だけを見ると、男子たちは、あまりのかわいらしさに魅了されていたことだろう。あいにくここは女子部屋で、男子はいない。
 そして瑞穂は2日間に渡る睡眠不足で驚くほどやつれた顔をしていた。目は腫れ、大きなクマができている。
「ふわあああ!」
 大きな欠伸とともに大きく伸びをする。

 瑞穂のあくびの声に刺激され、理美が目を覚ました。瑞穂に声をかけようとして、ギョッとする。
「瑞穂ちゃん、私たちが寝てる間にゾンビにでも噛まれたの?」
 瑞穂の顔は青白く、生気を失っている。半開きの口から垂れるよだれ。やつれきった目。力なく落ちてしまった肩。
 裕がこの姿を見たら、貴志の肩を叩いて大笑いしていただろう。
「サトちゃんもゾンビになれ〜!」
 瑞穂が理美に飛びついた。そのまま理美を抱きしめて首元を甘噛みする。
「ちょちょちょ、くすぐったいよ」
 首をはむはむと食まれながら、理美は身をよじった。瑞穂の手が理美の胸元に伸びる。
「このけしからん胸を私のものにしてやる〜」
 ゾンビではなくおじさんに変貌した瑞穂のセクハラに、理美は身をよじった。瑞穂は自分より3カップほど大きな理美の胸に…。
 そこでピタリと手を止めて、瑞穂は理美の顔をじっと見つめた。
 急に動きを止めた親友に驚いて、理美はまじまじとその顔を見つめ返す。
「何かあったの?」
 サトちゃんのせいだよ!瑞穂の盛大なツッコミが心の中で…いや、口からも最大音量で放たれていた。

 理美は目をパチクリとさせて首を傾げる。思い当たる節…思い当たる節?ま!
 全身の毛穴という毛穴が一気に開いて、背筋から汗が吹き出した。
 ま…さ…か?
「サトちゃんは、浮気についてどう思いますか?」
 赤い顔。潤んだ瞳。子犬のような上目遣い。その丸くて愛嬌のある目で、瑞穂はまっすぐと理美を見つめていた。
 理美は頭を抱えた。やっぱり見ていたのか。
「い、い、ぃ色々誤解はあるみたいなんだけど、何を見たのか…教えてくれない?」
 一応確認を取ってみる。何を話していたのか?ではなく、浮気について言及した以上、アレを見られたのだろう。
「恋人がいるのに他の人と抱き合ってて、誤解も、6階もないって…。
 え!まさか…誤解じゃなくて、5回目ってこと?」
 
 瑞穂が目を白黒とさせている。理美は大きくため息をついた。
 実を言うと理美もあまり寝付きが良かったとは言えないのだ。
 貴志にずっと感じていた罪悪感の根源。坂木紗霧への嫉妬と、彼女がいなくなって感じた安堵感。これを貴志に告白するのは、好意を伝えるよりも怖かった。
 伝えた時に貴志は、本気で理美の存在そのものを、全否定しようとしていた。貴志の全身から噴き出した黒ぐろしい負の感情が、形となって見えたように感じた。
 激しい自問自答の末に、貴志は憎悪よりも理美への信頼を優先した。そして彼女が望んだように罰を与えたのだ。
 悟志と付き合ってなお、消えてくれない貴志ヘの未練。それを一旦は受け入れる抱擁。 
 あの時震えていた貴志の腕や全身が教えてくれた。坂木紗霧がいなくなったことで、彼は女子に触れる事が出来なくなってしまったのだ。
 昨日の抱擁も、恐らく相当抵抗があったに違いない。
 あれは確かに罰だった。理美の気持ちは、どう足掻いても叶うことなどなかったのだ。彼の腕の中で安らぐ日など、絶対に訪れないのだと、突きつけられたのだから。
 理美の初恋は終わりを迎えた。
 悟志への想いはあれど、どうしても断ち切れなかった貴志への未練。貴志はその全てを受け入れ、そして突き放してくれた。
 心の迷いは晴れて、しかし失った恋の痛みはまだ少し胸に刺さっていて…。

 そんなこと…言えるわけがないし、信じないだろうなあ…。
 理美はもう一度大きなため息をついた。
「余韻にひたって、甘い吐息を漏らすんじゃないですよ、お嬢さん!」
 どこの名探偵になったつもりなのか、瑞穂は理美を指さしてビシッとポーズを決めている。
「じっちゃんの名はいつもひとつ!」
 そんな混ぜ方したら誰にもわからないって…。ツッコもうにも容疑者は自分なので、何も言えない理美なのだった。

「まずは悟志くんへのお気持ちを聞かせてもらえますか?」
 どこから出してきたのか、メガネをかけた瑞穂がマイクを理美の口元に持っていく。
 メガネはクラスメイトのものを勝手に拝借したのだろう。近視用メガネで視界がぼやけて、フラフラしている。
 マイクは…成人男性には世界一有名なマッサージ機。一体誰がこんなものを持ってきたのか。そしてなぜそれをむき出しにして置いていたのか。
「悟志くんは優しくて、誠実で、とても大事にしてもらってます」
 なぜ…理美は敬語で返答したのか。
「どうして恋人への気持ちを聞かれて、好きと即答できないんですか?」
 それも一言では返答しがたい。
 悟志にとって「好き」がどれほどの重みを持つのか、それを知っているから。貴志の腕の中で、一瞬でもときめいてしまった私には、彼を好きだと言える資格がない。それはこれから再び始めるスタートラインに立ったばかりなのだから。
「サトちゃんは…北村くんを、どう思ってるんですか?」
 瑞穂の声が細くなる。俯いて表情を隠した瑞穂は、それでも取材記者の体裁を崩そうとしない。
「北村くんは、サトちゃんが…好きなんですか?」
 小さく弱々しい問い。
「北村くんが、サトちゃんにだけ、態度が違うのは…なぜ…ですか?」
 最後の一言はほぼ吐息と変わらぬ声量だった。なのになぜか聞き取れたのは、言葉の奥に隠れた気持ちに気がついたからだろう。

 理美はそっと瑞穂を抱きしめた。
「サトちゃんは、女の子も好きなんですか?」
 瑞穂の声はか細い。
 そうだね。貴志くんへの気持ちとは全然違うけど、瑞穂ちゃんは可愛いよ。
 ごめんね。昨日のことは、忘れて欲しいの。貴志くんは、私の片思いだよ。
 私の気持ちを吹っ切るために、抱きしめてくれただけだよ。
 言葉には出していないのに、なぜか瑞穂が、胸の中で頷いた。
 
 ガブっ。さっきの仕返しとばかりに、理美は瑞穂の首に噛みついた。
 そして二人がじゃれ合ううちに、朝日の朱は薄れていく。
 修学旅行最終日が始まった。

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