【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第13話-春、班決め〜貴志②


 瑞穂を無事に家まで送り届け、貴志が帰宅する頃には、食卓がきれいに片付けられていた。弟の悟志は自分の洗い物を済ませて、リビングで勉強を始めている。
 貴志は部屋にこもって勉強するが、悟志はリビングでする。あわよくば貴志が教えてくれるのを期待しての事だ。悟志は二年二組。中高一貫コースを狙っていた。
「お帰り、兄さん」
 兄の気配に振り返りもせずに問題を解き進めていく。そのダイニングテーブルの向かいに座り、貴志は食事を摂り始めるのだった。

「悟志、その問題だけど…」
 食事をしながら弟の答案に目を配り、指を指す。
「あれ?答えは間違ってないと思うけど?」
 弟の返事に貴志はゆっくりと首を横に振る。
「答えそのものは良いんだが、ここ…
 この解き方を見る限り、テクニックで解いてる感じだろ?
 考え方がズレてるから、出題形式がこう変わると、同じ解き方では解けなくなるんだ」
 向かい側から器用に逆さに解説を書き足していく。
「こうすれば出来るって言うのは、解き方としては近道だけど応用が効かない。
 ちゃんと原理を覚えて、1から解き方を考えるんだ」
 そしてその問題の原理原則を説明していく。その間ほんの数分。
 類似問題を数時間解くだけの経験値を、数分で与えてしまう。公式を覚えるだけでは高校生以降通用しない。公式が出来上がる過程も理解していないと、見たことのない問題に対応できない。そう貴志は持論を展開していく。習っていない、見たこともない問題など、如月中学校では解けない言い訳にならない。それでも対応できる能力がないと競い合う事すらできない領域の生徒たちが当たり前に集まっているからだ。
 貴志はその中でもずば抜けて優秀なはずの生徒だった。

 食事を終える頃には、弟の自己学習も目標としていた範囲を終えていた。貴志は洗い物を済ませながら、もうすぐ帰宅するはずの母のおかずに火を通し始める。
「兄さん、理美さんの事なんだけど」
 母が帰って来る気配を感じる前に、済ませたい話を悟志が切り出す。
「ルール違反だと思うけどあえて言うよ。
 理美さんはたぶんまだ、兄さんのこと好きなんだと思うよ」
 洗い終えた食器を水切りかごに立てかけて、貴志が手を止める。まっすぐに弟を見るが、遠すぎて細かい感情は読み取れなかった。
 家事をこなす時は邪魔なので、前髪はアップにしている。そもそも家の中で顔を隠す必要もない。貴志の表情が隠れない短い時間。弱火でじっくりと熱を入れているチキンソテーが油の爆ぜる音楽を奏で、食欲を掻き立てる香りがキッチンを包み始める。
「理美さんが兄さんに告白した時、背中押したの俺なんだ」
 貴志がスープ鍋を火にかける。ゆっくり混ぜながら、弟の顔を見て頷いた。
「兄さんに断られて泣いてる理美さんを見て、好きだって気がついたんだ。
 それで理美さんの傷が癒えて次の恋をするまでの間、隣にいさせて欲しいって、告白した。
 俺から手を握ったことはあるけど、理美さんが手を握り返してくれた事は…まだないよ」
 まだ…という一言が震えるのは、希望と期待と不安から。
 悟志は偉大な兄に多大な劣等感を抱いていた。自分が兄の代わりになれるとは思えないのだ。それでも理美は努力すると言ってくれた。いつか貴志の背中ではなく、自分を正面から見てほしいと思う。
 それでも、悟志にとって大切なのは…
「兄さんが理美さんを少しでも好きになれるなら、それで理美さんが幸せなんだったら…俺はその方が嬉しいと思う」
 言葉とは裏腹に固く握った拳は震えている。理美さんが好きだ。その気持ちだけは絶対に兄さんには負けない。例え他の何一つ勝てるものがなくても…
 弟のまっすぐな気持ちが怖いくらいに伝わってくる。その気持ちは、まさしく紗霧に感じていた、自分自身の気持ちにそっくりなものだったから。

 温め直したスープをとろ火で保温にして、貴志は弟の正面に座る。まっすぐに顔を見つめる。悟志は知っている。坂木紗霧の顔を。
 貴志が今も大切に思っている相手は、悟志が想う高島理美と少し似ている事も。
 出会う順番が少し違っただけで、恋の始まる可能性があったかも知れない二人だと言うことも。それは貴志自身理解している。しかし…
「俺が高島さんとつき合うことはないよ」
 弟の顔をじっと見つめる。その目はまっすぐで涼しい目つきだった。
「まったく裕みたいな事を言うなよ…
 お前は二つほどわかってない」
 ひとつは貴志と裕の協定。その真意。
「大事なのは高島さんが幸せになれる相手と付き合うって事だろ」
 その相手は自分ではない。高島理美という人は、貴志が気持ちを受け入れてしまえばきっと苦しさに耐えられなくなる人だ。
 貴志の幸せを奪っておいて、そんな自分が、貴志に幸せを与えられる事に耐えられない人だ。
「高島さんは人を傷つける痛みをちゃんと知ってる人だよ」
 告白の言葉も、最初の一言は「ごめんなさい」だった。貴志が周りに冷たく当たる理由を、ちゃんとわかってくれている様子だった。
「だからお前のこと、ちゃんと思ってくれているよ」
 そうでなければ、彼女はこの家に来たりしない。そういう人だ。
 ただ気持ちが追いつかないだけだ。いまはまだ…
「もう一つは俺のことだ」
 貴志が続ける。視線はうつむいてテーブルの方に落ちている。
「俺は好きでもない相手とは付き合わない」
 そう前置きをつけたうえで続ける。
「もし好きになってしまったら…なおさら付き合えないよ」
 悟志は目を細めて眉間にしわを寄せた。貴志の深い悲しみに触れてしまった。兄がどんな思いで今を過ごしているのかわかっていたはずなのに。
 それでもあの初恋の傷が埋まれば、昔のようによく笑う兄に戻ってくれると思いっていた。それは間違いだったのかも知れない。
 貴志の傷は単純に恋を失った傷ではない事を、わかっていたはずなのに。
 兄にかける言葉が見つからない。沈黙が訪れた。静かなリビングに時を刻むのは時計の音と、キッチンから漂うスープの香りだけ。

 玄関から音がして静寂の空気が入れ替わる。母が帰ってきたのだった。
 その音に立ち上がった貴志が、母の食事を盛り付け始める。手洗いうがいを済ませて、母が食卓に着く。それと同時に一汁一菜ながらも栄養バランスの整った食事が並べられた。手を合わせて一口食べる母。冷静で物静かな内科医の顔が一気にほころんで一人の女性に戻る。
「あんた腕あげたわねえ!もう私と結婚しない?こんなの毎日作ってもらいたいわ」
 いや…毎日作ってるから。そもそもあんた結婚してるから。そう思いながらも貴志の口元は緩んでいる。学校では絶対に見せない表情だった。
「そうそう、その顔よ!お父さんそっくりでキレイだわ〜」
 母さん、酔ってんの?
「後で修学旅行の日程確認するから、案内の書類出しといてね。後、進路相談の用紙も」
 どうやら酔ってはいないらしい。
 一年半前「あの事件」が理由で呼び出されて以降、母は忙しい身でありながら学校と綿密な関係を築いてくれている。
 そのお陰で貴志は、普段の態度でも学校側から大きな問題とされることはなく過ごせている。
 食事を済ませて、二人の学校の書類に目を通すと、くたびれてそのままテーブルにつっ伏して眠ってしまう。
 そんな母の負担になっている事は、貴志にとっても辛いことだった。
 それでも…明日からも貴志は、今の態度を変えるつもりはない。変えられるはずもないのだ。

 決意は固い。しかし頑なな気持ちに実は少しずつヒビが入り始めていたのだが、貴志はまだその「ヒビ」に気付いてはいなかった。


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