【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第48話-春、修学旅行2日目〜貴志③

 最後に見た紗霧の顔は笑顔だった。目の端に涙を浮かべた、寂しい笑顔。その意味を知った時には、すでに彼女は貴志のそばにいなかった。
 あれから1年半の月日が過ぎた。

 夜風が冷たく体温を奪っていく。こんな風に心も冷めてくれたらどれだけ楽だっただろう。
 水面の揺れる音だけが二人の間に流れる時間を教えてくれた。静かに静かに時間が過ぎていく。
 その静寂を破るのは、二人の会話のみ。
「好きっていう言葉は、相手が自分を好きになってくれなくても…。
 例え自分以外の誰かを好きになったとしても、報われなくても、辛くても、相手にどんな秘密があっても」
 貴志の口から紡がれるのは、悟志から聞かされた言葉だった。その続きもよく覚えている。
「それでも好きだと思えないなら、絶対に相手に言っちゃいけない」
 まるでコピーして貼り付けたように、一言一句違えずに、貴志はその言葉を紡ぎ上げた。
「北村家の家訓…みたいなものかな。
 父さんが単身赴任の前に、言った言葉なんだ。
 高島さんの口から聞かされた時は驚いたよ」
 中学生同士の会話で出てくるような言葉じゃない。あいつそこまでの覚悟を決めといて、それでも…。
「悟志が言ったんだよ。
 高島さんは、まだ俺のことが好きなんだって。その気持ちに応えて上げて欲しいって」
 人の気持ちを、勝手に他人が口にするなんて、本当はしてはいけないことだとわかっている。それでもこれは伝えるべきだと思った。
「悟志の好きって気持ちは、ちゃんと高島さんのため…なんだよ。
 偉いよね。俺は俺の気持ちで、紗霧が好きで。高島さんは高島さんの気持ちで、俺が好きだって言うのに」
 貴志の表情は穏やかだが、目は寂しそうに笑っていた。普段は前髪で隠されてわからなかったが、きっと彼はずっとこんな風に寂しそうに笑っていたのだろう。いや、そもそも笑えなかったか…。

 貴志が、静かに立ち上がった。
 ずっとそうだったから、特に気にしたことはなかった。理美は今更気がついた。貴志は動く時にほとんど音を立てない。
 静かな言動。静かな所作。そんな彼があんなに心を乱される。彼にとって坂木紗霧と言う人がいかに大きな存在だったのか。今の立ち上がる動作の静けさで、改めて思い知らされた。
 貴志が、理美の隣に立った。つられて理美も立ち上がる。
 自然と向き合う二人。無言。しかし音のない時間は、長くは続かなかった。

「今から俺は、高島さんが嫌かもしれないことをする。いや、多分嫌だと思う。
 無理だったら思いっきり引っ叩いてくれていい」
 その言葉を聞き終わり、理美は無言で頷いた。貴志は察してくれたらしい。私が罰を受けることを望んでいると。
 固唾を飲んで覚悟を決めた。そんな理美の視界から、貴志が消える。しかし彼の気配は今までよりもずっと近い。
 ふわりと背中に回された手の感触で、貴志に抱きしめられたのだと気がついた。
 ああ…今、私は、貴志くんの腕の中にいるんだ。
 爽やかなシトラスの柔軟剤の香りが鼻腔をついて、彼の静かな息遣いが聞こえる。目には河口湖の湖面が照り返す月光。柔らかな貴志の腕は、しかし引き締まった筋肉でたくましくもあった。
 味覚以外の五感全てで、貴志の存在を感じ取る。そこは坂木紗霧の特等席だった場所。
 理美はそっと貴志の背に腕を回した。そして…。

 震えている?気がついてしまった。貴志の腕が、体が震えている。気が…ついてしまった。理美はその理由を知っている。
「貴志くん、もしかして…」
 ぐい…。腕を突っ張り、貴志から身を剥がす。そして彼の顔を見つめる。貴志の眉は苦痛に歪み、その目は怯えていた。
 そこにいたのは、一人の怯えた少年の姿だった。
「そう…だよ。俺は、女子に触れるのが、怖いんだ」
 貴志が再び寂しそうに笑う。
 もう数センチでキスできそうなところに顔を近づけても、平気そうにしていた彼が、弱々しく震えている。
 本栖湖で彼の胸に飛び込んだ。あの時肩を支えてくれた手も…震えていた。
「もしかして…」
 触れるのが怖い。触れられるのは平気でも。
 その理由に、理美は心当たりが…いや、すぐにその理由に気がついた。
「坂木さんがいなくなってから、ずっと?」
 理美は全身が強張るのを感じた。坂木紗霧への嫉妬。その罪に与えられた罰は、物凄く重かったのだ。
 悟志と付き合っていなくても、悟志に好意が芽生えていなくても。もし仮に、万が一にでも、貴志が自分の想いに応えてくれたとしても。
 貴志に抱きしめられて、安息を覚える日は絶対に来なかったのだと知ってしまった。
 そしてそれは、これからも。
 自分の罪が貴志の心に大きな傷を与えてしまった。彼の恋はもう…死んでしまっていたのだと、知ってしまった。
 さっきまでゼロに等しかった彼との距離が、星を隔てたくらいに遠く感じる。

「紗霧がいなくなった、あの事件。
 俺は知らなくて、いなくなってから事件を知って。
 俺は…この手で彼女を傷つけてしまっていたんだ」
 貴志が、じっと己の手を見つめる。その瞳の奥にいるのは紗霧。最後のデートで紗霧と繋いだ手。あの時の紗霧の強張った顔が、忘れられない。
「好きでもない女子なんて、触りたくもないし、近づいて欲しくもない。もううんざりなんだ」
 思いっきり首を振る。憎悪のにじみ出た顔で、過去の自分に群がってきた女子たちの幻影を振り払う。
「でも、もし紗霧とちゃんと心の中で、さよならできて…。
 もしこれから誰かを好きになれたとしても、俺はその手を握れない。抱きしめられない。
 俺のこの手が、その人を傷つけるのが怖いんだ」
 見つめた手をギュッと握りしめる。その手はもう、誰の手も握れない。
「俺は、これから恋をしても、相手が望む事に応えられない。
 この手から伝わった紗霧の恐怖を振り払うことができないんだ」
 ごめんなさい。ごめんなさい。理美は膝から崩れ落ちて地面にへたりこんだ。

 見てはいけないものを見てしまった。二人の抱擁を。 瑞穂からは二人の会話は聞こえない。ただ二人が抱き合ってある姿が見えただけだった。心が沈むのを感じる。 貴志ヘの気持ちは確かめようがないだろう。いや、確かめても意味がないんだろう。 二人が戻ってくる前にこの場を去らないと。瑞穂は静かに、音を立てないように宿に戻った。自動ドアが音を立てて開く。 瑞穂はその音に大げさに驚きながらも、声は上げず、静かに部屋に帰って行った。
「サトちゃん、まだかな?」
 わざとらしく同室のクラスメイトたちに聞いてみる。誰もが知らないとばかりに首を振って応えた。
 そりゃそうだろう。どこで何をしているのか、今しがた見てきたのは自分なのだ。誰にもわかるわけがない。そしてあれを見たのは、自分だけなんだと確認できた。
 静かに布団に入り、静かに頭まですっぽり布団に包まって、静かに大きく深呼吸した。
目頭が熱い。目から滲み出てくる何かを、瑞穂は静かに拭った。
 瑞穂が静かな事を周りは訝しんだが、すぐに女子たちは雑談に戻っていく。
 昨日寝ていない事は聞いていたし、昼間はかなりはしゃいでいた。きっと疲れて寝たんだろう。そう思って、誰も気にしていなかった。女子たちの会話はどんどん大音量になっていく。
 瑞穂は周りにバレないように、静かに肩を震わせた。ただ心は心臓の音とともに激しく、揺れ動いていた。
 瑞穂の耳には、女子部屋の喧騒よりも自分の鼓動の方がうるさく感じた。
 胸が…痛かった。
 

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