【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第7話-春、始業式〜紗霧

 始業式を終えて中学最後の一年が始まった。学年をまたいでも、代わり映えのない灰色の毎日だ。咲くのを待つのみの桜の木ですら灰色に見えてしまう。
 雑に伸ばした前髪が目にかかるのを鬱陶しく感じながら坂木紗霧(さかき さぎり)は学校を後にした。メガネの奥には憂鬱に伏せられた目。青白い顔には生気がなく、何かに怯えているようにも見えた。いや、明らかに怯えていた。
 静かに誰にも気づかれないまま彼女は歩く。ため息すら儚げに風に消えていき、誰も彼女の存在には気付かないようだった。紗霧にとってはその方が都合がいい。誰にも自分と言う存在を認識してほしくないのだ。
 人というのが怖くて仕方ないのだから。あの時から、怖くなってしまったのだから…
 紗霧は一人、隠れるように歩いていた。

 やっとの思いで家に着く。部屋に入って机の上に突っ伏して長い長いため息をつく。そして机に置いているペパーミントのタブレットを5つほど取り出して一気に口に放り込んだ。大量のミントの清涼感を肺いっぱいに吸い込んで、紗霧は特大のため息を吐いた。
 疲れ切った大人たちが喫煙室で繰り広げるような大きなため息をひたすら続けた後で、紗霧は数学の問題集を開いて解き始める。5ページほどを集中して解き進めた後でペンを止め、メガネを外した。天井をぼうっと眺める。上を向いたせいか前髪が左右に流れた。
 長いまつげから覗く目元は中学生とは思えない程大人びていて、鼻は高くはないものの美しい曲線を描いてそびえている。髪を雑に伸ばして、太いフレームのメガネで顔を隠すまでは、声をかけてくる男子が後を絶たなかった。きゅっと眉を寄せて溢れそうになる涙を堪える。
 不意に教科書と参考書の間に立てかけているアルバムを開いて、紗霧は堪えていた涙をぽたぽたと落とした。

 アルバムの中で満面の笑みで笑う少女。セミロングの髪はきれいにとかれ、前髪も揃っていた頃…まだメガネで顔を隠す必要のなかった頃…二年前の自分自身。その隣には涼やかな優しい目をした美しい少年が並んでいた。写真に写ったその少年の髪を指でなぞる。その指先が、肩が、震えていた。堪えようもない気持が溢れてくる。
「貴志くん」
 震えた声で名前を読んだ。その声は狭い室内で虚空へと溶けていく。会えなくなって一年半。逃げるように立ち去って、いや実際逃げたのだ…彼の前から。
 会いたいと心から願っても届かないところまで逃げてきてしまった。会いたいと思う資格もないほど彼を傷つけてしまった。
 携帯電話は解約していない。あの事件の証拠が残っているから、サービスの継続が必要だった。
  登録されている大半の相手はブロックしているが、北村貴志と山村裕の二人だけはそのままにしてあった。
 引っ越した直後は鳴り続けた電話や通知もすべて取ることはできず、季節が2回変わる頃に鳴らなくなった。
 自分から連絡することもできなかった。連絡して、貴志が出て、それでどうする?謝るのか?何を…
 思考の堂々巡りを無駄に繰り返しながら季節をいくつも通り過ぎ、三年生になってしまった。
 自分からは連絡する資格を永遠に失ってしまった紗霧は、一年生の夏に止まってしまった時間の中でしか、貴志に会えなくなってしまった。
 好きな人はできたかな?そんな事を考える。彼には幸せに過ごして欲しいと本心で思っている。彼を深く傷つけてしまった自分には貴志の幸せに関わることはもう二度と許されない。なら貴志を幸せにしてくれる誰かがいることを願うしかなかった。だけど本心では今でも変わらず、貴志の隣には自分が並んでいたいのだ。叶わぬ願いに涙が止まらない。涙でぼやけた目で紗霧はずっとずっと写真を見つめ、記憶を反芻するしかないのだった。

 2年前の今頃、如月中学校の入学式を終えた教室は異様な雰囲気に包まれていた。教室は女子の悲鳴で埋め尽くされていた。いや声だけではなく、女子で埋め尽くされていたのだ。
 他のクラスの女子だけではない。他の学年の女子も教室に訪れていた。黄色い声の渦の真ん中にいたのは、1年生にしては幼さの抜けた、涼しい目元に爽やかな笑顔を浮かべる少年だった。
 何、あれ?紗霧は周りの勢いに押されのけぞっていた。北村貴志が小学生の頃からちょっとした有名人だった事を彼女は知らない。
 SNSに映り込んだ彼を見つけてアイドル事務所がスカウトにやってきたとか、彼がスポーツの大会に出ると相手チームの女子までが彼の応援をし始めるだとか、彼の美貌による噂は後を絶たなかった。しかし紗霧はそれを知らない。単純に興味がなかったのだ。
 入学式前に挨拶は済ませている。確かにカッコいいとは思っていた。でも大事なのはその人の生き方、人となりだと思っていた。
 かくいう紗霧も同学年にしては大人びていて、同じく芸能事務所から声をかけられたりもしていた。それも単純に興味がなくて断っていたのだが。中学入試を控えていた頃の彼女にとって浮ついた噂など関係なくて、日々勉学に努めることが第一だったのだ。
 その甲斐があってか紗霧は1組の教室にいた。パラパラと国語の教科書を開いて読もうとはするものの、声援がうるさすぎて内容が頭に入ってこない。
 うるさいなあ…
 当の北村貴志はというと、小学校卒業前のバレンタイン辺りから女子に囲まれ続けていて、ほとほと困り果てていた。なにせどこで何をしていても、見つかれば声をかけられるのだ。
 参考書を選ぶついでに青年誌の表紙に写る水着グラビアを眺めているときですら。思春期の入口にいる少年にとって、エロティシズムを阻害される暮らしはどれだけ辛いだろうか?想像を絶していた。
 気にせずにエロティシズムの満足を選ぶ男子は多いが、貴志は両親の厳しい教育のもとでそれは紳士の道に反すると教え込まれていたので、女子の目が光る状況では性的な欲を満たす読書はできずにいた。
 それが人気を加速させたことは、貴志には最大の皮肉だっただろう。
 それはともかく、握手会のように入れ代わり立ち代わり自分の顔を見ては何かしら…握手したり、一緒に写真を撮るなりのおねだりをしてくる女子に誠心誠意答えながら、貴志は横目で隣の席の女子に謝罪した。
 それが坂木紗霧と北村貴志の出会いだった。
 何?あれ…
 初恋を知らない坂木紗霧は呆気に取られるとともに、万人に優しく対応しようとする貴志に対して「調子の良い人なんだろうな」とむしろ悪い印象を受けているのだった。
 
 貴志が影で王子様なんて呼ばれ方をし始めたのは入学式の翌日だった。もはやマンガである。紗霧はというと、その事実が妙にツボにハマって貴志の顔を見ると笑いをこらえるのに必死な位だった。
 確かに騒がれるのはわかる。こんなきれいな顔の男子は、初めて見た。でもみんなは彼のことをどれほど知っているのだろう?
 授業が一通り終了して、帰り支度を始めた紗霧に貴志が声をかけた。
「昨日に引き続いてごめんなさい。
 うるさくするつもりはないん…」
 最後の「だ」を発言する前には女子が貴志を囲み始めている。またしても黄色い声援。
 それを遮るように甲高く明るい声が響いた。
「貴志〜帰ろう〜ぜえええ」
 声の主、山村裕が女子の囲いを打ち破り貴志の手を取って彼を連れ出した。
「ああ山村、一緒に帰ろう!」
 ちなみにこの瞬間が北村貴志と山村裕の初めて話した瞬間だった。正直助かったという気持ちと同時に、まるで昔からの親友のように声をかけてあの状況から救い出してくれた裕に対して、貴志はなんの根拠もないまま友情を感じていた。
 これから先、一生の友となる二人の出会いはこんなにもあっさりしたものだった。そして二人共このあとも運命共同体と言っていいほどの関係になるなんて、この時は全く想像すらしていなかった。

 写真を眺めていた紗霧はそこで回想を一旦終えて首をかしげた。
 あれ?私、なんで貴志くん好きになったんだっけ?
 紗霧にとって貴志との出会いは後で思い出しても喜劇のような出会いだったのだ。
 暗い顔の少女の顔が、思い出し笑いで満面の笑みとなる。
 辛い別れから1年半を隔てても、彼女にとって貴志と過ごした日々は太陽のような時間だったのだ。その事実を貴志は知らない。
 知っていれば違う人生もあったかも知れない。しかし貴志は、知らないのだ。
 紗霧も貴志がいまだに自分を想っていてくれている事実を知らない。もし連絡を取り合うことができていたら、こんなにも怯えて毎日を過ごすこともなかったのかも知れないのに…

 こうして二人の時間は止まったまま、激動の中学三年生の日々が幕を開けてしまったのだった。

この記事が参加している募集

私の作品紹介

忘れられない恋物語

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?