コミュ症の文豪とゴロツキ娘 第一話
【あらすじ】
高等遊民夏目源五郎は家に引き籠って読書や思索ばかりしていた。社会に出ることが苦痛の彼は亡くなった両親の財産を切り崩してひっそりと暮らしていた。家事は叔母の清子さんがしてくれる。人間嫌いな源五郎だったが、彼の著作を読んだことがきっかけになって姪の蓉子の友達のまりあが出入りするようになって……。
吾輩はコミュ症の文豪である。
幼少期より文章を書くという天稟の才を与えられ、幾つもの長編小説を書いてきたのであるがまだ世に出していない。
何故なら吾輩は極度のコミュ症なのである。
吾輩の作品を人様に読まれると思うと恥ずかしさと恐ろしさで冷や汗が止まらなくなるのである。
今吾輩の作品を出版社に掛け合って世に出したならば世の好事家の目に留まって或いは売れるかもしれない。
しかしその為には出版社に電話を掛けてやり取りせねばなるまい。
煩わしい雑事も多かろう。
吾輩電話が来ただけで恐れをなして、雷鳴に震える幼児の如く部屋に籠って布団を被り鳴り止むのをただひたすら待っているような男である。
不甲斐ないかぎりである。
尤も耳栓をすればよいではないかと意見する者もあるかもしれぬが、豈図んや我が鋭敏なる聴覚の前に耳栓など無用の長物と化す。
目下吾輩の作品は、吾輩の死後身の回りの世話をしてくれている叔母聖塚清子さんの娘の蓉子さんが出版社に掛け合って出してくれるということになっているのであるが、もし吾輩の意識が死後幽霊となって残った場合、我が著作に対する毀誉褒貶を聞いて恥ずかしい思いをするのではないかと心配している。
またもしも幽霊同士の交流などがあったとしたら?
幽霊になっても煩わしい人間関係などあってはたまったものではない。
いっそ不老不死になって永遠に生きた方がいいのかしらん。
閑話休題、それほど重度のコミュ症であるからこの小説を書くにも一大決心、広瀬中佐の旅順閉塞作戦の如く、または敵前回頭を命じる東郷大将の如く掉尾の勇を奮い起こしてこれを書いているのである。
因みに吾輩の筆名は夏目源五郎という。
勿体なくも夏目漱石の没後弟子と称し夏目姓を拝借してる次第である。
源五郎は本名で清子さんは吾輩を源ちゃんと呼ぶ。
吾輩の願いは亡くなった両親から受け継いだそこそこの財産を計画的に消費し、浪費せぬよう切り詰め誰にも会わず粛々と読書と思索と執筆の日々を送ることである。
これはキルケゴールの生活を参考にしている。
遺産の管理は清子さんに委任してある。
父親の遺言で母の妹の清子さんの娘、吾輩にとって姪の聖塚蓉子さんが大学を卒業するまでの学費を遠野家が支払うことになっている。
その代わり遠野家の一人息子である吾輩、源五郎の面倒を清子さんが見ること。その分月々の月謝は別に支払うことになっている。
書斎の文机で小説を執筆しているといつの間にか一人の娘が忍び込んで書棚を物色しているのに気づいた。
「おっさんさあ。また変なもん書いてるんでしょ。無精髭剃ったら?」
この娘は館森まりあといって蓉子さんの級友であり竹馬の友である。
唯一吾輩の作品を読むことを許可している清子さんが吾輩の小説を持ち帰った処、娘の蓉子さんが面白く読んでくれたそうでその後文学好きのまりあに貸してしまったらしい。
そしたら大いに感銘を受けたようだ。
まりあは今大学三年生なのだが吾輩の弟子になると称して勝手に我が家に出入りするようになった。
傍迷惑な話である。
しかも男勝りで勝ち気な鼬娘である。
色白で目が大きく比較的容姿端麗なのであるが中身はゴロツキである。聖母の名を冠しているが性格は真逆だ。
「そのおっさんと言うのはやめてくれ。まだ三十ニだ」
「三十ニになりゃ立派なおっさんだろ。それよか何か面白い話してよ」
全くの子供である。
吾輩は書斎から何か適当に面白ろそうな本を探した。
適当に目についた「月刊ムー」を手に取るとまりあに渡す。
「ここに面白い話が載ってるよ。君が小説を書く上で参考になるかもしれないな」
「へえ、ムーね。それって宇宙人とかツチノコとか出鱈目ばっか書かれてるんじゃねえの?」
吾輩は苦笑した。
「まあそれは否定しないが。全てが全て出鱈目という訳ではないよ。稀にこれは見るべきものというものもある」
「例えば?」
「う~んパンスヘルミア説とかインテリジェントデザイン論とかだな」
「へ~なんか面白そう」
手に取ると興味深気に読み始めた。
これで暫く大人しくなればよいが。
この娘からは作家指南だの小説作法だのを頼まれているが、到底吾輩の技量で教えられるものではない。
第一吾輩はアマチュアであって小説家ではない。
死後好事家の目に留まるかもしれないと一縷の望みを託しているに過ぎない。
只大学を出てから丁度十年間。 有難いことに一度も社会に出ることなく、就職せずに家に籠って読書ばかりしてきたのだから、世間擦れすることなくさぞ青臭い頭脳、純粋な思想を保持し続けているものと自負している。
このような作家はそうそうおるまい。
尤も夏目漱石が「それから」で書いたように仕事をすることを劣等な経験を嘗めるもの、好んでやるべきではないと思っているのではなく、人間の社会に飛び込むのが苦痛なだけである。
人間を相手にするぐらいなら犬猫を相手にする方がましだと思っている。
大体人間というものは何を考えているかわからん。
二人で楽しそうに話していたと思ったら、その相手がいなくなった途端その人の悪口を言ったりする者もある。
吾輩はこれを何度か見聞きし、録音して相手に聞かせたらさぞかし痛快だろうと思った。
世に盗聴器が流行るのも道理である。
両親の遺産がなければ止むに止まれずこの辛酸を嘗め、塗炭の苦しみを味わう運命だったであろう。
幸か不幸か両親の残した財産のお陰で吾輩は神経衰弱にならずに済んだ。
大変な僥倖である。
この娘はどうも吾輩の二番煎じで大学を出ても仕事をせず、高等遊民をしながら作家デビューを目論んでいるらしい。
そんなに社会は甘くないよと吾輩の口から言えぬ処が悩ましい。
「あのさあ、源五郎のおっちゃんよ~。これはこれで面白いんだけどさ。あたしが書きたいのは恋愛小説なの。恋バナの一つも聞かせてくれよ」
恋バナとは恋愛のことであろうが吾輩色恋沙汰には疎い。
最早出家得度した僧侶に等しく齢三十ニにして悟ってしまった。
それでも色を求める気持ちがないではない。
吾輩が読む読書、殊に小説には大いに恋愛が描かれているし、様々な芸術、特に音楽の中でもオペラ何ぞは色恋沙汰の極致である。
吾輩もヴェルディやプッチーニのオペラは好んでCDやDVDで聴いたり観たりする。
それにこれでも若い頃は美男子と持て囃されたこともある。持てないと言ったら嘘になるだろう。
過去に色恋沙汰がたった一つだけあるにはあったが、はてどう話したらよいか。
吾輩書くのは得手であるが話すことは滅法不得手である。
どうしたものかと頬杖をついているといつの間にかまりあが
「お、いいもん見っけ」
と言って吾輩の文机の上の書きかけの原稿を勝手に取った。
「こらっ。返しなさい。まだ書き掛けなんだ。お前には見せん」
吾輩、執筆途中の原稿を他人に読まれるのは尤も嫌いな事の一つである。取り返そうとしたが妙に運動神経が良くひらりひらりと身を躱す。
「まあまあそう固いこと言うなって。何々、『吾輩は馬鹿である。齢三十ニにして悟り得たのは唯この事のみである。吾輩の馬鹿さ加減を面白いと思う好事家の為にこれを書き記すのである』だって。あははは。今頃気づいたんですか?夏目源五郎大先生!」
これにはいかに温厚な吾輩でも嚇怒した。
これは打擲するに如かず、と近くにあった孫の手を振り上げたところでガラッと襖が開いた。
姪の蓉子さんだ。
「あら、まりあちゃん来てたのね。源五郎叔父さん今晩は。今日は母が用事があって来れないので私が来ました。少しお掃除をしてからお夕飯の支度をしますので」
「あ、そうですか。どうも有り難う」
「では出来たらお呼びしますね。まりあちゃん、あんまり叔父さんを調戯っちゃだめよ」
「だってさ~蓉子ちゃん。『吾輩は馬鹿である』だってよ。まじ受けるでしょ」
「まあ、面白そうな題名ね」
蓉子さんは清楚でおっとりとしたお嬢さんである。
吾輩の姪ながら高貴な顔立ちをしている。
「蓉子さん。何かまりあに適当な物を食わせてやってください」
「あ、はい。たしか生ハムがあったかしら?」
「え、生ハム?食う食う~」
そう言ってまりあと蓉子さんは書斎を出て行った。
やれやれである。
煩いのが居くなったし恋バナをしないで済んでよかった。
我が閑静な小世界に出入りする人間は清子さん、蓉子さん、まりあと中学からの腐れ縁の小川常太郎のみである。
ついでに白斑の猫を一匹飼っている。
名前はまだないがみんなチビと呼んでいる。
さて夕食まで読書をするか瞑想をするか?
吾輩は先程のやり取りで疲労困憊したので目を瞑ることにした。
【続く】
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