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コミュ症の文豪とゴロツキ娘 第六話


 京都堀田の邸宅。
 その日は偶々堀田が早く帰ってきたので、久しぶりに雪子は夫と水入らずで夕食を共にした。
 夕食後、雪子は食器類をキッチンで洗いながら一人ウイスキーを飲みながらテレビを観ている堀田にいい機会だと話を切り出した。
「ねえ、貴方。ちょっと話があるの。聞いて頂戴」
 立派な髭を蓄え大柄な体躯を年々肥満しつつある堀田は、まだ四十になったばかりだというのに既に貫禄がある。性格も陽性で源五郎とは好対照である。
「何だい、話って」
 そう言って堀田はリモコンでテレビを切った。
 堀田の正面のテーブルに雪子が座った。
「実はね、この前貴方に言ったけど大学時代のお友達と喫茶店でお会いしました」
「ああ、聞いた。何でも男だってね」
「ええ、そうよ。それでね。彼、もう暫くこちらに滞在するらしいのよ。私、彼と会うと学生時代を思い出して楽しくって……また会ってもいいかしら?」
「何だ、そういうことか。お前も昔は哲学だか何だか勉強したららしいからな。そりゃ楽しいだろ。いいさ行っておいで」
「そう、良かったわ。でね、一つ言わなきゃいけないことがあるの。怒らないで聞いてくれる?」
「何だいそりゃ?」
「この前は貴方に黙っていたけどね。その友達の遠野源五郎さんっていうのは昔付き合った恋人なの。つまり元彼ね」
「……」
 堀田は意表を突かれたように変な目遣いをして雪子を見た。しかしすぐに気を取り直して、元の泰然たる態度に戻った。
「それでも会っていいかしら?」
「別に構うもんか。浮気をする訳じゃあるまいし。その遠野って男は独身なのか?」
「ええ、何分変わり者だから。奥さんをお貰いになる気はないそうよ」
「ふん、今はそういう奴が増えてるからな。お前はそいつをどう思ってるんだ?」
「彼とはただのお友達よ……。ねえ、一つ仮の話をしてもいいかしら」
「仮の話?面白そうだな」
 そう言って顎髭を撫でる堀田の目には、好奇の光が動いた。
「もし仮に私が遠野君と浮気をしたとしたら貴方どうするの?怒り狂うのかしら?」
「ははは。そりゃその時になってみないと分からないけど、世間一般の夫としての立場上、黙って見過ごす訳にはいかんな」
「そりゃ建前でしょ。貴方自身の気持ちは?」
「まあ、俺としては怒る資格はないだろうな。俺が公然と浮気をしても文句一つ言わないで呉たんだから」
 堀田は今時、浮気は男の甲斐性と言って憚らない男であった。また陽性の性格の為よく持てた。且つ自信家でもあった。貿易で財を成し得えたのも、生き馬の目を抜くような自らの機知よるものと信じて疑わなかった。ことに酒が入ると舌が廻りはじめ、女を口説き出すのが常であった。
「貴方知ってたのね。そうよ、私ずっと耐えてきたんだから。だから私が浮気したってお相子よね」
「あははは。お前はそうして仇を討つ積りかい」
「そうよ。貴方の浮気は一回や二回じゃないんだから、私が一回ぐらい浮気したって仇討ちにはならないかもしれないけど。……一度ぐらい遣り返してみたいのよ。それでもし貴方が気に食わないと思ったら、遠慮なく私を殺して頂戴」
「ははは。仮の話にしちゃ随分物騒じゃないか。お前、酔ってるね」
「酔ってないわ。素面よ」
「そうかい。ま、いいさ。浮気でも何でもお前の好きなようにするがいい」
「そう分かったわ。そうさせて貰います。私はもう寝るので。お休みなさい」
 そう言って雪子はパタパタとスリッパの音を響かせながら、足早に寝室へ下がっていった。
 堀田は何事もなかったかのようにテレビを点けるとまたウイスキーを飲み始めた。


 私はあれから二回雪子さんに会った。
 二回目はまた例の喫茶店で私が研究してる神について語り合った。まるで学生時代に逆戻りしたようであった。
 大学を出てから十年に亘る思索の過程において尤も興味深いと思ったのは神についての考察である。恐らくこれについては一生かけても結論は出ないだろうが自分なりの神の姿が朧気ながら現れてきた。
 もし神がこの世界を創造したと仮定した場合、その被創造物である人間や宇宙を観察することによって神の輪郭が露になる。例えば物質の最小単位が存在するということは、この世界を創る上でそれが便宜に敵うからである。また宇宙を支配する六つの数字というものがあってこれのどれか一つでも違った値を取っていたらこの宇宙は存在しなかったという。このことから宇宙は緻密に計算されていて神は数学者としての側面を持っていることになる。
 また欧米ではインテリジェントデザイン論といって宇宙や生物は知性ある「何か」によって緻密に設計されたとする有力な説がある。
 しかしこれらの説は神を唯一の人格神とするキリスト教の影響が大きい。昨今の私は寧ろスピノザの云う汎神論こそ真実に近いのではないかと思い始めていた。
 具体例でいうと宇宙の大規模構造が人間の脳に近い為、宇宙全体であらゆるものを包含する意識を持っているのではないか。その巨体な意識をこそ神と呼ぶべきものではないか。それが私の仮説である。
 それについて雪子さんが質問したので少し詳しく説明した。
 銀河が集まって細長い網目状になっている部分を「銀河フィラメント」と呼ぶが、これが人間の脳内ネットワークに於ける軸索や樹上突起に酷似していること。
 宇宙にはこうした銀河が約1000億個以上あるが人間の脳内には約860億個あること。
 また宇宙の組成としてダークエネルギーが約70%占めているが、人間の脳内では水分が約77%を占めていること。
 またネットワークの密度も両者はよく似ていること。
 これらの仮説や数値は既に科学的な研究成果として発表されているもので、私はそれらの文献を何度も読んで暗記していたので淀みなく答えた。
「つまり僕や雪子さんはその宇宙脳が見ている、夢のようなものかもしれませんよ」
「随分面白い考えね。それじゃ私も貴方も宇宙脳には丸分かりじゃありませんか」彼女は笑いながら言った。
「ええ。ひょっとすると小説家のように僕達のことを書いてるかもしれない」
「ふふふ。それじゃ私達はこれからどうなるんでしょう?」
「それこそ神のみぞ知るというやつですな。ははは」
 このようなことを二人で話している内に、話題は段々神からスピリチュアリズムへと移っていった。
 あの頃からスピリチュアリズムに興味のあった私は仕入れた情報を無批判に受け入れ、雪子さんにその論理的欠陥を指摘されることが度々あった。
 今ではすっかり遠ざかってしまった懐かしい議題であるが、結局十年経った今でもよく分からないという一語以上のものは出て来なかった。
 雪子さんにしてもあの膨大な心霊現象の話を全て幻覚で片付けることは出来ないとし、「何か」はあるに違いないが、現状科学の俎上に載せることは出来ないという。
 私も同意見で、例えばもし霊能力者が本物だったとしたら警察の捜査に協力して立ちどころに未解決事件は無くなるはずだから、そういった能力については懐疑的であると言った。また幽霊が現在の観測機器で捉えられない以上、もし存在するなら物理学でいうダークマターやダークエネルギーの類いだろう言った。また私の乏しい体験談の中で複数の事例を話したが、それとて夢か幻覚かの判断はつきかねるものであった。
 その日はランチを共にして三時間ほど話して別れた。
 別れ際「また会いましょうね」と言った雪子さんの表情はとても儚げであった。


 三回目に雪子さんと会ったのはそれから二日後のことだった。
 彼女は前回と違って胸元の空いた白いロングドレスを着てハイヒールを履いていた。香水のいい匂いがした。
 私達は例の喫茶店で一時間ばかり世間話をした。
「ここじゃちょっと話にくいから外へ出ましょうか」
「ええ」
 それから二人は連れだって京都の街を歩いた。
「ねえ、遠野君。こうして歩いていると本当にあの頃を思い出すわね」
「ええそうですね」
 二人はよくこうして歩いたものだった。アリストテレスを真似てN大学の逍遙派と称して、二時間でも三時間でも歩きながら議論したのだった。
「しかしあまり好い天気過ぎるようだな」
「そうね。でも京都の夏はまだまだこんなものじゃないのよ貴方」
 初夏の陽光に照らされて身体の弱い私はすぐに汗をかいた。
 そんな私に反して日傘の中の雪子さんは至って涼しげであった。
 やがて二十分ばかり大通りを歩くと、噴水の音が涼やかな広い公園が見えてきた。
「ここで休みましょうか」
「ええ」
 入り口にある自販機で二本のお茶を買い、緑陰にある木製のテーブルに二人は座った。
 蝉の声が静かに鼓膜を打つ。
「悪いわね遠野君。何度も呼び出しちゃって」
「いえいいんです。どうせホテルで本を読むか書き物をしてるぐらいしか能はないんで。こうして貴女に会えるのが楽しみなんですから」
「本当に?」
「ええこんな風に楽しく話せるのは貴女ぐらいなもんです」
「小川君とは?」
「彼奴とは馬鹿話ばかりですよ。雪子さんのように明晰な頭脳は持ってないんでね。彼奴の戒名はきっと天然居士だな」
「ふふふ、酷い言われようね。でも私も大分馬鹿になったのよ」
「そうでしょうか?そうは見えないけれども」
「この前ね。貴方と死後の世界の話したでしょう。私、最近死ぬことばかり考えているの」
「そりゃ余りよくないな」
「人間なんてどうせいつかは死んじゃうものでしょ……そうは思わない?」
「そりゃそうですが」
「だったら今死んでも同じことよね」
「う~ん。色んな考えはあるかもしれないけど折角なら寿命まで生きた方がいいようだな」
「そうしら。私はあんまり長生きしたいと思わないのよ……ねえ夏目君。もしよかったら、私と一緒に死んで呉ないかしら」
 彼女は潤いに満ちた黒目勝ちの瞳を輝かせてそう言った。
「……」
 私はすぐに答えられなかった。
「私ね。実を言うと生きてるのが嫌になったのよ。貴方はそんなことなくって?」
「無論僕だって生きてるのが嫌になることはありますよ。僕は高等遊民として今日(こんにち)まで生きて来ましたが、半ば魂の脱け殻みたいなもんです」
「そうなの。貴方がそんなだなんてちっとも知らなかったわ。思い通り生きてるのかと思ってた」
 私は「誰のせいでこうなったんですか」と言って遣りたかった。しかし何となく躊躇われた。代わりに、
「貴方となら死んだって構いません。是非一緒に死にましょう」という言葉がなんの拘りもなくすんなり喉を通った。まるで落語のような気楽さで。
 ……雪子さんはまるで「死」というものを超越してるかのようだった。いや既に学生時代から男子ですら超越できない壁を易々と越えるような勇気を持っていた。ある意味で侍のような潔さかもしれない。
 もしこれが普通の小説であれば、雪子さんを説得して更正の道へ導くのが筋であろう。しかし私は敢えてそうしなかった。
 この時の私は雪子さんと心中することがとても魅力的に思えたのだ。孤独のまま暗い人生の旅路の果てに老いて死ぬよりも、まだ若い内に自分の愛した女性と共に死ぬことは、とても甘美なことのように思われた。
 それに夏目漱石の没後弟子と称し、物を書いて暮らす自分には、自死という最期が寧ろ相応しいように思えた。そういえば芥川龍之介も自死であった。
 この時の私はこのような心理に支配されていた。きっと狂っていたに違いない。


 その晩私と雪子さんはホテルに泊まった。
 ワインを酌み交わし夜更けまで語り合った後、私と雪子さんは長い接吻を交わした。
 私はベッドで安らかな寝息を立てる、雪子さんの美しい寝顔を見ながら、備え付けのテーブルの上で遺書を書いた。
 簡潔に私の我儘を詫びて、遠野家の財産は聖塚家に譲るということ。そして蓉子さんの学費等に充てて欲しいと。
 そこまで書いて不意にまりあを思い出し不憫になった。
 私を師と仰ぐまりあは悲しむだろう。……まりあ。
 遠野家の屋敷は聖塚家に譲るが、もしまりあが下宿として住みたいと言ったらただで住まわせてやって欲しい。私の蔵書は好きに使っていい……まりあへの償いの積もりでこう書いた。
 私はまりあのことが気に懸かった。そしてもう会えなくなると思うと急に寂しさが込み上げてきた。
「おっちゃん。あたしと恋でもしてみれば」……。彼女のあの言葉はどこまで本気だったのだろうか。
 よくまりあとはスピリチュアリズムについて語り合ったものだ。もし幽霊というものが存在するとしたら、私は化けて出て彼女を驚かそうか。そんな空想をして私は寂しく微笑した。


 私は翌日死ぬというのに曾てない安らぎを総身に受けつつ安眠を貪った。夢も見なかった。
 翌朝晴れ晴れとした気分で目を覚ますと、雪子さんは鏡台で念入りに御化粧をしていた。時計は既に九時を回っていた。
 私は髪を解かしている雪子さんに聞いてみた。
「昨夜のことは覚えていますか?」
「ええ勿論」
「本当に死ぬ気ですか」
「ええ貴方と一緒なら」
 何だかこれからにピクニックにでも行くような明るい調子だ。
 私も何故か雪子さんと心中するということが楽しいことのように思えてならなかった。畢竟狂っているに違いない。
「よし死ぬにしたってどうして死ぬんです」
「そうね。私、睡眠薬を飲んだり首を括ったりするのは嫌よ。卑怯だし人様に迷惑が掛かるでしょう」
 私は深刻な話をしてるというのに思わず吹き出してしまった。
「まあ慥かここで死んだらホテルに迷惑が掛かりますね。損害賠償を請求されるでしょう」
「うちの夫に損害賠償を支払わせて意趣返ししてもいいのだけれど。……流石にね」そう言って雪子さんは寂しげに笑った。
「しかし人様に迷惑が掛からない死に方何てあるのかな?」
「どうかしら?きっと多かれ少なかれ迷惑が掛かるかもしれないわね。それなら私、テレビや新聞に載るような面白い死に方をしてみたいわ。雷に撃たれるとか滝から飛び降りるとか」
 私は雷に撃たれるのが一番劇的だと思ったが到底実現しそうにないので、一番オーソドックスな海へ身投げすることに決まった。
 私達はシャワーを浴びて着替えた。流石に朝食を摂る気にはなれなかった。ホテルをチェックインするとタクシーを呼んだ。五分程でタクシーはホテルの玄関に来た。
 運転手には日本海側で見晴らしの良い岬まで連れてって呉と頼んだ。
 一時間半ほどで走ってタクシーは緑の濃い岬へと着いた。運転手に料金を払って帰すと、二人でゆっくりと岬の突端まで歩いて行った。
 沖には白波がどーんどーんと寄せては返す荒海が広がっている。これでも今日は穏やからしい。
 二人で手を繋ぎながら荒れ狂う海を眺めた。
 心がわくわくした。
「そうだ。辞世を詠みましょう」
 そう言って彼女は微笑んだ。
 今の時代、そんな粋な真似をする女が他にいるだろうか?
 やはり彼女は並外れた女である。私は嬉しくなった。
 暫くして彼女は
 「遺書に書く俳句は秘密青岬」
 と言った。そして手提げバッグからメモ帳を取り出し、ボールペンで書いて私に見せた。
「どう遠野君」
 私は学生時代に戻っていた。
「中々上手いもんだね雪ちゃん」
「ふふふ。受けるでしょ」
「うん、君らしい」
「貴方は?」
 私も彼女を真似て辞世を詠んだ。
「淋しさは月の見えない海の底」
「へえ中々いいじゃない」
 彼女はメモ帳を手提げバッグに戻すと足元に置いた。
 そして靴を揃えて脱いだ。私もそれに倣って、遺書の入った鞄を置き靴を脱いだ。
「遠野君。一緒に死んで呉て有り難う」
 そう言って彼女は寂し気に笑った。
 私はその時とても大きなブリスを感じた。
「愛する君と一緒に死ねて僕は今とても幸せだよ」
「ご免ね。あの時は貴方を棄ててしまって」
「気にすることはないよ。雪ちゃん」
「もし来世があったなら、今度こそ一緒にいようね」
「うん」
 それから私達は最期の接吻を交わした。
 慥かにここにいる雪子という女の存在が私の胸を温かくした。
 私は到頭、人生の内に一人の女のスピリットを掴むことに成功したのだ。
 胸に嬉しさが込み上げてきた。
 彼女も同じ気持ちだろうか。
 私達は手を繋いだまま岬の突端から荒海へ身投げした。
 少しも怖くなかった。


 【続く】


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