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コミュ症の文豪とゴロツキ娘 第四話


 二日後約束した喫茶店で待っていると、丁度三時に雪子さんが入り口に現れた。
十年ぶりに見る雪子さんは水色に白い花模様の付いた着物を着てまだ二十代のような若さと美貌を保ちつつ、どこか陰のある貴婦人と成っていた。元々長かった黒髪を肩ぐらいに切り揃えている。
入り口で日傘を畳む雪子さんに片手を上げて挨拶した。
「やあ雪子さんですね。ご無沙汰しています」
「遠野君ね。全く変わらないわね。あの頃のまま」
彼女は艶やかに笑った。
「ええ相変わらずぶらぶらしてます。貴女はいい奥さんに成りましたね。立派な御召し物なんか着て。こんな事なら僕もフロックを着てくればよかった」
私は安物のワイシャツに黒ズボンを履いてきたことを大いに恥じた。
「ああこれ?やだバーゲンで買った訪問着よ」
そう言って雪子さんは笑いながら袖を振ってみせた。
それからお互いに丸テーブルに向き合って座った。
「元気そうでよかった」
「ええ貴方もね」
「何か飲みますか?僕はアイスコーヒーにします」
「私もそれで。こちらではね。冷コーって言ったりするんですよ」
「そうですか」
「あ、今は夏目君だっけ?」
「ははは。あれはまあ筆名というやつですよ。あの時分から夏目漱石が好きでしたからね」
「そう夏目漱石の話はよくしたわね。よくあなたと『こころ』について議論なさいましたわね」
「ええ私の研究テーマの一つでもありましたから」
「あの頃は良かったわね。……まりあさんに聞いたけどまだ奥さんを御貰いにならないんですってね」
「ええ何せこの性分ですからね。結婚なんて微塵も考えておりません」
十年ぶりに会ったというのに昨日今日大学で話していたかのようにすらすらと言葉が出てくる。実際私と雪子さんはこの程度の馴れ合った言葉を平気で交わす程近しい間柄であったのだ。
そのやや古風な山の手風の言葉遣いも懐かしく感じられた。
雪子さんは私より歳が二つ上であった。
一頻り近況を語り合った後、話題は大学の恩師である広田先生へ移って行った。
「広田先生は鬼籍に入られたそうですね」
「ええ残念ながら三年前に。惜しい事です」
「先生ならばいつか、ノーベル賞を獲るんじゃないかって学生時代に言ってましたのにね」
「そうでしたね。……ただ先生はそういったものに興味は無かったでしょう。晩年の研究については知りませんが」
先生からは学問としての哲学よりも人間としての在り方を学んだ気がする。
先生の仰っていたことで印象に残っていることは、人間のモラルとエチカがいかに後天的に作られたかという事だった。西洋文明はキリスト教を中心に倫理観が形成されているが、それと比較した日本人の倫理観との相違点。先生はあえて日本文明と言っていたが違っている処もあれば似ている処もある。その似ている処はキリスト教という枠を外して考えた時、全人類に備わった共通の倫理観なのかというとそうでもないらしい。もし全人類共通の倫理観があればアマゾンの奥地に住んでいる、一度も文明と接触したことのない部族名も言語も分からない「イゾラド」という先住民族にも備わっているはずだから、彼らを研究しなくてはいけないという考えだった。例えばキリスト教で頻繁に説いている「愛」という概念が彼らにもあるだろうかなど。先生は到頭「イゾラド」を研究しないまま逝って終われたが、私は先生の影響で多少疑い深くなったように思う。倫理観が変われば喜怒哀楽が反転することもあるのだから。
雪子さんは思い出したように言った。
「哲学といえばあの館森まりあさんっていうの?貴方のお弟子さんて言っていたけどとても面白い女の子ね」
「いやあいつはとんだゴロツキ娘でしてね。恋バナをしろとせがまれて、つい昔の貴女とのことを喋ったらとんだことになりました。まりあの言ったことは全部出鱈目なんですよ。申し訳ない」
そう言ってこうべを垂れる。
「いえ貴方に謝らなければいけないのは私の方なのよ」
そう言うと雪子さんは神妙な面持ちで謝った。
「私と貴方はいい御友達だったし御付き合いもして……そう愛し合っていたわ。でもね、何故かしら。親の勧めもあったけど堀田に求婚されたときいいなって思ってしまったの。貴方を決して馬鹿にするつもりじゃなかったわ。ただ貴方との未来は想像出来なかった…」
二人は共に歴史や文学、哲学的な命題について話し合ったけど時を経つにつれ、段々二人の世界が離れていくことを自覚しない訳にはいかなかった。
「でもね。今になって思うと……貴方は自分の世界を建立してそれを一段一段積み上げていく人よ。私も途中までは一緒になって煉瓦を積み上げていくのが楽しかったし、自分の役にも立つと思ってた。けどいつの間にか貴方はずっと高い所に行ってしまって、私には見えなくなってしまって……私が女だからってことでもないんでしょうけど…」
私は親の遺産があったからバイトや切り詰めた生活には縁がないまま今日まで暮らしてきた。
それに対して雪子さんは奨学金制度を利用して入学し早くに両親が離婚し母親と暮らした苦労人である。
また病弱な弟を抱えていた。
そのためバイトもスーパーとコンビニを掛け持ちしたりしていたりとかなりの苦学生であった。
私のような太平楽を並べて教養と自らの見識を高めるために学ぶ者と違い、大卒でいい仕事につき親の生活に補助を与えるという切実な問題に突き動かされていたようだ。
実家の経済状況。弟の学費。自身の奨学金の返済。
雪子さんにとっては貿易で財を成し、母親とも遠縁にあたる堀田との縁談はやむにやまれぬものだったのだろう。


「貴方とは友達のままでいようと思ったんだけどね。それじゃ夫に悪いと思って到頭貴方に打ち開けないままになってしまったの。御免なさい」
私はこの話を聞き長年の蟠りがふっと溶けていくと同時に、その時何も聞かずに意固地になっていた自分を恥じた。
「雪子さん。謝らなくっていいんですよ。貴女の決断は正しかったと今ならはっきり分かります。無論当時の僕は悔しい思いをしました。でも貴女の直感は当たってました。僕は今でもこの通り高等遊民としてのらくらしてるんです。親の遺産を切り崩して露命を繋ぐ意気地無しです。どうか笑って下さい。私には貴女を幸せにすることは出来なかった。経済的な満足を与えることだけじゃない。精神的にも到底貴方に相応しい人間ではなかったのです」
昔も今も経済的な問題が結婚に大きく結びついているのは疑いようのない事実である。
畢竟自分のような人間が結婚するとなれば、歳上の金持ちの未亡人ぐらいだろうと思うこともあった。
それから話題は堀田に移っていった。
「最初の二年ぐらいは夫はとても優しくしてくれて一緒に旅行に出かけたり楽しい毎日を送っておりました。でも三年が過ぎ子供が出来てから急に夫は冷たくなってきたのです」
「やむ終えない会社の付き合いだからと毎晩遅く帰ってきたり、知らない女の人の香水の匂いがした時もありました。でもきっとこんなものよね。世間じゃよくあることよねって自分を納得させて生きてきました。家に一人でいると寂しいので夫にはよせと言われるけれど子供の居ない時間はパートで働いています。今でもふと貴方との楽しい日々を思い出すこともあるんですよ」
そう言って雪子さんは寂しげに笑った。
雪子さんの話は私にとって思いもよらないことであった。
「そうでしたか。堀田さんとはとても円満な家庭を送っていると風の便りに聞いてはいたんですが」
「まあこんなこと世間じゃよくある陳腐な話なんでしょうけどね。私、大学時代に御勉強したことも哲学の事もみんな忘れてしまったわ。まりあさんに哲学の事を聞かれても詰まってしまったのよ。あんなに熱心に貴方と議論したのにね」
「雪子さん…まりあの言うことは全部法螺なんですよ。哲学について聞いたのも貴女に接近するための口実でして、其の実何も分かっちゃいないんだ」
「あらそうなの?随分熱心な学生さんかと思ったけど」
私はこれを聞いて思わず吹き出してしまった。
「まりあはね。とんだゴロツキ娘なんですよ。全く悪戯ばかりして困ります」
「そりゃ貴方、まりあさんは正岡子規に似てなくて?貴方と御似合いよ夏目源五郎さん」
「はははは。まりあが正岡子規とは恐れ入ったな。本人に言えばきっと喜びますよ」
「ええ是非そうなさって。ところで貴方、今でも御勉強為さってるの?」
「まあ勉強といえば聞こえがいいが僕の場合、自分の興味が向いた方面の本を集めてもひたすら乱読するという感じですね。そして思索を重ねていく。僕の事だから専門家になるのは嫌で厭きたらすぐ宗旨変えします。まあ道楽みたいなもんです」
「へえ中々面白そうじゃない。今は何を研究なさっているの?」
「う~ん一言で言えば神はいるかいないかといった処でしょうか?」
「それは興味深いわね。是非聞かせてくださいな」
まるで雪子さんは大学時代に戻ったかのように眼を輝かせてくる。
確かにあの頃から私が思いつきで発した考えを雪子さんに聞いて貰うのが私達の日常であった。
そそっかしい私は自分の考えをよく吟味しないまま得意になって自説を述べ、雪子さんにその論理的な破綻を指摘されたことがよくあった。
私が観念的な思考をし勝ちなのに対して雪子さんは明敏な知性の持ち主でその論理的な思考によって私の仮説を補助してくれた。
彼女に言わせれば私はよく突飛なことを思い付くそうで、そのような思考の飛躍が出来る私を尊敬していたそうだ。
私も彼女の明快な彼女の知性に敬意を払っていたからお互いに相思相愛の間柄であったのだ。
彼女のその論理的な思考は、ある考えからある考えへ移るとき前提条件として省かれる常識的な考えを疑ってかかるところから始まる。
あるとき大学の友人の誘いでとあるキリスト教団体の集会に招かれたことがある。
無論その怪しさは重々承知していたが、私は一般教養として持っていたキリスト教の知識を深めてみようという知的好奇心に釣られてその集会に参加することになった。
その時一緒に行った雪子さんは、勧誘しようと熱心に語る彼らの宗教観の論理的欠陥を見事に論破してみせた。
こういった勧誘に乗せられる者は普段から論理的思考の訓練を行っていないのだろう。
誘ってくれた友人というのは誠実な優男で中々こんないい奴はいないだろうと思っていたのだがその宗教を心の拠り所としていたのだろう。
彼はノルマがあったのか他の学生たちにも熱心に勧誘していたのだが後に軽い鬱病になったと聞いた。真面目過ぎたのだろう。
私は雪子さんとの会話で十年前のこういった出来事をありありと思い出した。
「どうしたの?ぼんやりしちゃって」
「今ね。昔のことを思い出してたんですよ。よくこうやって貴女と議論しましたね。貴女の論理的な考察には随分感心しました」
「ええ私もなんだかあの頃に戻ったようだわ。だけど私の人生はちっとも論理的じゃないのよ。こんなはずじゃなかったのにね」
「はははは。そりゃ人間の本質が論理的じゃないからかもしれません」
「そうね。なんだか私が敗者で貴方が勝者みたいに思えてきたわ」
「冗談言っちゃいけない。端からみれば僕は充分敗者ですよ」
「そうかしら?私、何もかも放り出して貴方みたいな境遇に一遍成ってみたいわ」
「いいでしょう是非御成なさい……なんて僕の口からは言えません。確かに貴女から見れば自由かもしれないがその代わり、随分と孤独ですよ…」
「そう……お互いうまくいかないものね」
そう言って雪子さんは寂し気に笑った。
なんだか十年前の議論の落ちが十年の時を経て今やっとついたような気がした。
そして愉快とも悲しいともつかない妙な心持ちがした。
時計を見ると話し始めてから二時間近く経っている。
「はて何の話だったかな?」
「貴方が研究してる神がいるかいないかとか…」
「そうですね。しかしちゃんと話すと長くなりますよ」
「あらもうこんな時間なのね。確かにそろそろ帰らなくちゃ。貴方、こちらには暫くいるの?」
私は咄嗟に嘘を吐いた。
「ええ暫く京都に滞在するつもりです」
「貴方さえ良かったらまた会えないかしら。昼間一人でいて寂しくっていけないから」
「しかし堀田さんは大丈夫なんですか?」
「ええ夫は私のことなんて関心が無いみたいだし。それに学生時代の御友達が京都に来てるから御話しに行くって正直に言えば許してくれるわ」
「そうですか。僕は駅前のホテルに泊まっています。昼間は図書館で本を読んだり書き物をしてるので貴女の都合がいい時に呼びつけてください」
それから私達は電話番号を交換して別れた。
御土産のとらやの羊羮を渡す時、陰のあった彼女の笑みが本当に晴れ晴れしていることに気づいた。
私は帰り道十年来の心にあった曇りがようやく晴れ渡ったような愉快な心持ちで暮れゆく街を眺めながら歩いた。


【続く】


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