烏天狗クーロン

囲碁研究会の開催。書籍販売。囲碁の歴史研究をしています。

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マガジン

  • 囲碁史記 No.5

    囲碁史研究家の視点により、囲碁の歴史を貴重な資料をもとに解説。 No.5は囲碁史記 第83回から第105回まで 村瀬秀甫亡き後の本因坊秀栄を中心とした明治期の囲碁界を紹介します。 井上家、安井家の終焉により家元は本因坊家のみに。そして東京の他、関西や中部にも囲碁組織が成立していき現代に繋がる。

  • 囲碁史記 No.4

    囲碁史研究家の視点により、囲碁の歴史を貴重な資料をもとに解説。 No.4は囲碁史記 第67回から第82回まで 明治維新から本因坊秀甫逝去までを紹介します。

  • 囲碁史記 No.3

    囲碁史研究家の視点により、囲碁の歴史を貴重な資料をもとに解説。 No.3は囲碁史記 第42回から第66回まで 本因坊元丈の時代から幕末の秀和の時代までを紹介します。

  • 囲碁史記 No.2

    囲碁史研究家の視点により、囲碁の歴史を貴重な資料をもとに解説。 No.2は囲碁史記 第25回から第41回まで 碁聖本因坊道策の後継者の時代から低迷期を経て本因坊察元、烈元の登場により再び囲碁界が活性化するまでを紹介します。

  • 囲碁史記 No.1

    囲碁史研究家の視点により、囲碁の歴史を貴重な資料をもとに解説。 No.1は本因坊算砂から道策まで。

最近の記事

囲碁史記 第123回 日本棋院創立

 関東大震災で甚大な被害を受けた裨聖会の高部道平は、再建のため大倉喜七郎を訪ね後援を依頼している。  これに対し、統一を巡る囲碁界の混乱を知る大倉は、「裨聖会だけの援助はしたくない、しかし中央棋院、方円社、裨聖会など全碁界が一つにまとまるためなら援助を惜しまない」との意向を伝えた。  これを聞いた高部は、直ちに本因坊秀哉および方円社の新社長岩佐銈と協議し、各派を統一していく方向で話がまとまった。 日本棋院創設までの流れ 秀哉の意を受けた小岸壮二が急逝するという痛手はあった

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    • 囲碁史記 第122回 関東大震災と囲碁界

       大正十一年末から十二年にかけて、囲碁界は激動の時期を迎える。十一年十一月に裨聖会設立声明が出され、十二年一月に方円社の丸ビル移転、および中央棋院が設立される。そして四月には中央棋院が分裂するなど、目まぐるしく情勢が変わっていった。  そうした中で、九月一日十一時五十八分に関東大震災が発生。死者・行方不明者は推定十万五千人といわれ、明治以降、日本の最大規模の災害は囲碁界にも大きな影響を及ぼしていく。 橋本宇太郎の記録 地震発生時の様子について橋本宇太郎は「風と刻」で詳細に

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      • 囲碁史記 第121回 中央棋院設立と分裂

         前回も述べたが、大正十一年十二月に革新的な改革を提唱する裨聖会が設立され、方円社では囲碁界統一に積極的な理事の鈴木為次郎や瀬越憲作がいなくなり日本囲碁協会設立計画は活動停止を余儀なくされる。  その反面、方円社では重鎮が抜けたショックが大きく、坊社両派が急速に歩み寄ることとなり、東京囲碁界の仮統一組織とも言える中央棋院が設立される事となる。 中央棋院設立の経緯 方円社の丸ビル移転計画に奔走していた広瀬社長は、疲労や、雁金、鈴木、瀬越の三人が抜けたショックのためか病に倒れて

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        • 囲碁史記 第120回 裨聖会

          裨聖会設立 大正十一年十一月、方円社の雁金準一、岩佐銈、鈴木為次郎、瀬越憲作、本因坊門下の高部道平が突如声明書を発表する。坊社両派の重鎮による声明に囲碁界は騒然とする。   趣意書  今回下記の五名が発起致しまして、将来棋界の第一人者たるを期すると共に、現代棋界の革新を図る為に、一つの会を作りました。即ち我々が勝負を争った上で、最も優秀の成績を挙げた者を棋界の代表者として推薦し、若し之を認めぬ者がありますれば、何時にても対等の資格を以て勝負しようと云ふのであります。其れに

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        囲碁史記 第123回 日本棋院創立

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        マガジン

        • 囲碁史記 No.5
          23本
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        • 囲碁史記 No.4
          16本
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        • 囲碁史記 No.3
          25本
          ¥5,750
        • 囲碁史記 No.2
          18本
          ¥4,180
        • 囲碁史記 No.1
          25本
          ¥4,980
        • 囲碁の起源から日本への伝来
          8本
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        記事

          囲碁史記 第119回 日本囲碁協会の頓挫

           大正末期、囲碁界には急速に合流の機運が高まり、紆余曲折を経ながら日本棋院が設立される。  まず最初に動いたのが方円社の支援者・大繩久雄による「日本囲碁協会」設立構想である。 大繩久雄 大正末期の囲碁界合流に大きく関わる大繩は、文久二年二月二十五日に秋田藩士簗市三郎の次男として生まれ、大繩家の養子となり家督を相続する。  明治十三年に東京へ出て、苦学の末、十五年に農商務省へ出仕。二十一年に辞して旧藩主である侯爵佐竹義生氏の家扶となり、後に家令を務める。  明治四十一年に米

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          囲碁史記 第119回 日本囲碁協会の頓挫

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          囲碁史記 第118回 方円社、中川社長辞任と広瀬の就任

          雁金の方円社復帰 大正八年四月、長らく囲碁界の表舞台から遠ざかっていた雁金準一が、十四年ぶりに方円社へ復帰する。明治三十八年三月に方円社から本因坊秀栄門下へ移り、秀栄が亡くなった明治四十年に起きた後継争いに敗れて以降、自分の殻に閉じこもっていた雁金は、大正六年十一月に亡くなった十五世井上田淵因碩の後継者に推す声が高まった際、一時その気になっていたが、井上門内の相続争いに嫌気がさし、申し出を受けることはなかった。その雁金の方円社復帰に囲碁界は騒然となる。  雁金の復帰には次の

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          囲碁史記 第118回 方円社、中川社長辞任と広瀬の就任

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          囲碁史記 第117回 大正期の棋士②

           前回、大正期に活躍した棋士を何人か紹介したが、他にもたくさんいるのでもう少し紹介していく。 大正期の棋士について、後に関西棋院を設立する橋本宇太郎は、著書「風と刻」に次のように書いている。 大正期の囲碁棋士について 大正九年ごろの囲碁界では現在のプロ棋士のような立場の人は十人をわずかに越えるだけであった。  頂点に本因坊秀哉名人がいる。名人は即九段である。ついで中川亀三郎七段、雁金準一六段、広瀬平治郎六段、高部道平六段、鈴木為次郎六段、瀬越憲作六段、岩佐狂六段、野沢竹

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          囲碁史記 第117回 大正期の棋士②

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          囲碁史記 第116回 大正期の棋士

           明治以降、対立を続けてきた囲碁界が合流へと向っていく大正時代、本因坊秀栄や巌埼健造の時代より世代交代が進み、キーマンとなる新たな棋士たちが登場してくる。 小岸壮二修行時代  本因坊門下の中で、碁界統一に向けて中心的な役割を果たしたのが、本因坊門下の小岸壮二である。小岸は次期当主として秀哉が最も期待をかけていた人物である。  先日、囲碁史会員の中垣内氏が、小岸に関する研究を発表されたので、参考にしながら紹介させていただく。  小岸壮二は、明治三十一年(一八九八) 一月三

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          囲碁史記 第116回 大正期の棋士

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          囲碁史記 第115回 「評の評」事件

          事件の発端 大正七年、囲碁史に残る事件が発生する。本因坊秀哉による野沢竹朝の破門である。  新聞碁の勝抜戦敗退戦で名をあげ「鬼将軍」の 異名をとった本因坊秀栄門下の野沢竹朝は、大正四年、三十五歳の時に五段へ進み、銀座松本楼で披露会を催する。同年八月、雑誌「虎の巻」誌上に「評の評」を発表するが、これが事件の発端となる。  「虎の巻」は元時事新報の記者、矢野晃南(由次郎)が経営する富の日本社が刊行する囲碁雑誌。矢野が晩年刊行した「棋界秘話」(昭和四年一月、梓書房刊)には掲載が

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          囲碁史記 第115回 「評の評」事件

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          囲碁史記 第114回 大正期の囲碁の普及と廃止論

          はじめに これまでも述べたが、明治維新後、西洋文化が流入すると、それまでの日本古来の文化は時代遅れという風潮が広まり、囲碁も一時衰退していく。  しかし、世の中が落ち着いていく中、方円社という新しい時代に即した組織の誕生により、囲碁界は再び活気を取り戻し、日清、日露戦争という外国との戦いにより、日本の伝統文化が見直され、囲碁愛好家の人数も増えていった。  大正三年に勃発した第一次世界大戦は、主戦場がヨーロッパに限られたため、日本の犠牲は少なく、青島、南洋群島のドイツ領占領な

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          囲碁史記 第114回 大正期の囲碁の普及と廃止論

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          囲碁史記 第113回 囲碁評論家の登場

          新聞碁と囲碁雑誌 以前紹介したが、新聞に初めて碁譜が載ったのは明治十一年の郵便報知新聞である。しかし、同紙はやがて経営者が変わり囲碁欄を廃止、明治二十年代にようやく復活するが、本格的に碁に力を入れ始めるのは「報知新聞」と改題した大正になってからである。  新聞主催の対局が初めて催されたのは明治三十一年九月十一日付けの 国民新聞からである。  時事新報は明治二十九年に「碁の栞」と題して対局譜を掲載し始め、自社主催の棋戦を企画したのは明治三十四 年二月の「囲碁新手合」からである

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          囲碁史記 第113回 囲碁評論家の登場

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          囲碁史記 第112回 秀哉の名人就位

          月曜会 明治四十一年二月十八日に第二十一世本因坊秀哉となった田村保寿は、同年九月あるいは十月に八段へ昇段し、当主としての地位を固めていく。  本因坊継承をめぐり雁金派が「敲玉会」を設立したのに対抗して、本因坊秀元とともに合同の研究会を立ち上げていたが、小林鉄次郎の息子である小林鍵太郎の勧めもあり、明治四十四年に「月曜会」を立ち上げ、一月十五日に自宅にて初会が行われた。これは前年三月に秀栄夫人・土屋満基子が自宅(旧秀栄邸)にて「東京囲碁会」を立ち上げたことに対応するためだった

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          囲碁史記 第112回 秀哉の名人就位

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          囲碁史記 第111回 囲碁同志会と中川千治の方円社長就任

          中川の方円社退社 明治三十二年に方円社三代目社長に就任した巌埼健造は、社の立て直しに尽力していくが、そのワンマンぶりに一部の社員に不満が高まっていく。  明治三十八年、副社長の中川千治、広瀬平次郎、岩佐銈は雁金準一を担ぎ巌埼へ抗議したが、老獪な巌埼に雁金以外は籠絡され、雁金は本因坊秀栄の門へ移っていく。  騒動は一段落したものの、その後も不満はくすぶり続け、明治四十年九月、我慢の限界を超えた中川は方円社を退社し独立する。  中川千治、旧姓石井千治は方円社最初の塾生で、林家分

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          囲碁史記 第111回 囲碁同志会と中川千治の方円社長就任

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          囲碁史記 第110回 巌埼健造の逝去 

          巌埼健造の性格 抜群の行動力で、一時期勢いを失った方円社を盛り立ててきた巌埼健造だが、反面、ワンマンともいえる性格で社員の反発を招き、方円社を離れた人物もいる。  そこで、今回は最初に改めて巌埼の性格について紹介していく。 潔癖症  教場として使い、方円社を移転させた御徒町の自宅は、小松ノ宮、山田顕義、山県有朋、芳川顕正、伊藤博文ら要人が出入りしていたため、玄関脇に馬けい所を整備し、増えていく門弟のために対局室を増築するなど、次第に豪壮な邸宅になっていったという。しかし

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          囲碁史記 第110回 巌埼健造の逝去 

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          囲碁史記 第109回 巌埼健造時代の方円社

          三代目社長・巌埼健造 明治三十二年(一八九九)一月二十日、方円社社長・中川亀三郎が隠退し、巌埼健造が三代目社長に就任する。亀三郎の時代、「四象会」の設立など本因坊秀栄が力を盛り返していたのに対し、方円社はかつての力を失っていて、巌埼にはその立て直しの期待がかかっていた。  巌埼の性格は親分肌だったといわれ、困難な時代に社を引っ張っていくのに最適な人物であったといえる。しかし、ワンマンであったことから次第に社内には不満が高まっていったという。  そのため、明治三十八年には雁金

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          囲碁史記 第109回 巌埼健造時代の方円社

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          囲碁史記 第108回 本因坊秀哉誕生

           明治四十一年二月、田村保寿はニ十世本因坊秀元から家督を譲られ二十一世本因坊秀哉を襲名する。世襲制最後の本因坊である。  前回も述べたが、十九世本因坊秀栄が亡くなった後、田村と雁金準一との間で跡目争いが繰り広げられ、明治四十年三月にひとまず秀元が再襲したうえで、秀栄の一周忌を待って田村へ家督が譲られた。 秀元再襲後の動向 秀元の再襲により、本因坊家の跡目問題は表面上落ち着きを見せるが、雁金を中心とする未亡人派は同年六月に「敲玉会」という研究会を作り結束を固め、これに対し秀

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          囲碁史記 第108回 本因坊秀哉誕生

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