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囲碁史記 第117回 大正期の棋士②


 前回、大正期に活躍した棋士を何人か紹介したが、他にもたくさんいるのでもう少し紹介していく。

大正期の棋士について、後に関西棋院を設立する橋本宇太郎は、著書「風と刻」に次のように書いている。

大正期の囲碁棋士について

 大正九年ごろの囲碁界では現在のプロ棋士のような立場の人は十人をわずかに越えるだけであった。
 頂点に本因坊秀哉名人がいる。名人は即九段である。ついで中川亀三郎七段、雁金準一六段、広瀬平治郎六段、高部道平六段、鈴木為次郎六段、瀬越憲作六段、岩佐狂六段、野沢竹朝五段、小野田千代太郎五段、小岸壯二五段、加藤信五段(いずれも当時)と高段棋士はこれだけだった。


 また、当時の専門棋士、いわゆるプロ棋士は、方円社もあったが、基本的に、すべて特定の師匠の門弟に限られていた。囲碁史に造詣の深い安永一氏は、著書「囲碁五十年」にて、当時の師弟関係を次のようにまとめている。

本因坊秀哉・・・宮坂宷二、小岸壯二、福田正義
        村島義勝、高橋重三、前田陳爾
鈴木為次郎・・・木谷実、関山利一
瀬越憲作 ・・・井上一郎、橋本宇太郎
広瀬平治郎・・・加藤信、岩本薫

 この他にも、中川亀三郎、岩佐銈などがそれぞれ門弟を擁していた。
 このように師弟関係が確立した時代には、弟子たちが自由に手合をして、 研究することはできなかったという。
 ただ、この頃育った棋士たちが、日本棋院創設後の囲碁界を背負っていくこととなる。

瀬越憲作

 第二次世界大戦後、日本棋院初代理事長を務めるなど囲碁の普及に大きく貢献した瀬越憲作は、明治二十二年(一八八九)五月二十二日、広島県佐伯郡能美村(現広島県江田島市)に生まれる。能美島は本因坊秀策の兄弟弟子である石谷広策の故郷でもあり、昔から囲碁が盛んな土地柄であった。
 昭和五十八年には瀬越の功績を讃え、故郷に銅像も建立されている。

瀬越憲作先生像
(広島県江田島市能美町高田1429-5 JA呉高田支店の隣り)

 瀬越は、本因坊秀元から初段を受けるほどの碁好きの祖父から五歳の頃に手ほどきを受け、中学校に入学した頃には、二、三段くらいの人と互角に打てるようになっていたという。
 広島一中(現・広島県立国泰寺高校)在学中の明治三十八年、夏休みを利用して母の故郷である神戸に出向き、中根鳳次郎、阿部亀次郎、鴻原義太郎、橋本藤三郎らの指導を受ける。
 明治四十二年、二十歳の時に父親と親しい政治家の望月圭介の案内で上京し方円社に入社。同年の東京朝日新聞の少壮碁客血戦会で高部道平四段と先番で対戦して四目勝ちとなり『四段と無段の争碁』として話題となる。
 同年兵役のため帰郷するが、その際に鈴木為次郎三段と先相先で対局している。そして、四勝ニ敗となり、飛付三段を許されたため、彗星の如く天才青年現ると、再び大きな話題となった。
 大正六年五段。大正九年には本因坊秀哉に先の手合まで進めている。坊社の若手棋士が結成した六華会には、会友として協力し、大正十年に六段へ進んだ。この年雁金準一、鈴木為次郎、高部道平と共に裨聖会を設立。その後、日本棋院設立に尽力していくが、それについては別の機会に紹介させていただく。
 後進の指導にも力を入れた瀬越の門下には橋本宇太郎、杉内雅男、伊予本桃市、久井敬史、曺薫鉉らがいる。呉清源も来日し、瀬越のもとで学んでいる。
 関西出身で、後に関西棋院を設立する橋本宇太郎は、神戸の久保松勝喜代門下であったが、大正九年、十四歳の時に久保松の紹介で上京して瀬越門下となっている。優秀な弟子は東京へ送り出していた久保松は、村島義勝、前田陳爾は本因坊秀哉、木谷実は鈴木為次郎へ紹介している。橋本が瀬越門下となったいきさつについて、瀬越は著書で「久保松君が私に『橋本という少年は碁の方はまあ、ほっておいても強くなるけれど、どうも体が弱い。他の先生方は一向にそういう方面に無頓着なのだが、あんたなら細心の注意を払ってくれるから……どうだろうか』」と頼み込んだと語っている。久保松が弟子思いであることと共に、瀬越のやさしい性格も分かるエピソードである。
 橋本自身も、「風と刻」の中で次のように述べている。

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