囲碁史記 第119回 日本囲碁協会の頓挫
大正末期、囲碁界には急速に合流の機運が高まり、紆余曲折を経ながら日本棋院が設立される。
まず最初に動いたのが方円社の支援者・大繩久雄による「日本囲碁協会」設立構想である。
大繩久雄
大正末期の囲碁界合流に大きく関わる大繩は、文久二年二月二十五日に秋田藩士簗市三郎の次男として生まれ、大繩家の養子となり家督を相続する。
明治十三年に東京へ出て、苦学の末、十五年に農商務省へ出仕。二十一年に辞して旧藩主である侯爵佐竹義生氏の家扶となり、後に家令を務める。
明治四十一年に米穀取引所の監査役となり二年後に理事に就任。また、四十二年には国光生命保険相互会社専務取締役に就任した他、京浜電気鉄道の取締役を務めるなど実業家として活躍する。
また、故郷秋田市より推されて、明治三十七年に衆議院議員となり、続く四十一年の総選挙でも再選を果たしている。(明治四十五年の総選挙で落選)
また大繩は方円社の広瀬平治郎囲碁の後援者であり、自らも強豪として知られていた。
方円社社長となった広瀬平治郎が前社長中川亀三郎に相談なく七段に昇段し、中川が激怒した際も、大繩が調停に動き、中川の八段準名人昇段と顧問就任で事態収拾をはかっている。
大繩は、大正六年に三段からいきなり五段へ異例の昇段を果たしている。それも本因坊、方円社の両免状である。当時出された大正囲碁名手番付にも、西(方円社)の前頭に瀬越憲作と共に名前が記されている。
ただ、やはりプロとは違い、政財界に影響力を持つ大繩であるから、いくら囲碁が強いといっても実力以上の段位が与えられていたのだろう。矢野晃南の「棋界秘話」には次のようなエピソードが紹介されている。
大正六年に五段へ昇段し盛大に披露会を行った大繩は、翌春に本因坊秀哉を筆頭とする五段以上のプロへ、一局五十円の賞を懸けて一人四局づつの対局を申し込んだ。秀哉とは二目、二代目中川亀三郎、広瀬平治郎、岩佐銈とは定先、そして鈴木為次郎、瀬越憲作ら同段の棋士とは互先で対局し、結果は計四十局中、持碁となった岩佐との一局を除き、三十九敗、懸賞金は一千九百五十円となり、大繩には気の毒であるがプロとアマの力量の差を測ることとなったと記されている。
関東大震災の直後には、岩佐が矢野を通じて、一局十円の懸賞を懸けた十番碁を申し込み、岩佐の九勝一敗、その後も関山利一、小林鍵太郎とも五円の懸賞付きの対局を行っていて、「大繩さんは負け顔も悪くないが、殊に金の出し振りの爽やかなのが誠に気持ちがいい」と喜ばれていたという。また矢野は「大繩さんの顔を見ると、何だかクリスマスにサンタクロースが来たような気がする」といい、これも一種の慈善家ではあると評している。
日本囲碁協会
碁界統一を目指す大繩は、広瀬平治郎や関星月と相謀り、日本囲碁協会設立趣意書を作成する。
大繩の動きについて、協力者の一人、矢野晃南が「棋界秘話」の中で詳しく紹介されている。
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