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囲碁史記 No.6

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囲碁史研究家の視点により、囲碁の歴史を貴重な資料をもとに解説。 No.6は囲碁史記 第106回から第123回まで 本因坊秀栄が亡くなった後、日本棋院が設立されるまでの囲碁界を紹介…
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記事一覧

囲碁史記 第106回 本因坊継承争いと秀元の再襲

田村と雁金の対局 本因坊秀栄逝去後、後継者の座を巡り争ったのが田村保寿と雁金準一である…

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囲碁史記 第107回 本因坊秀元

十六世襲名 十六世・二十世本因坊秀元については、これまで何度か記事の中に登場してきたが…

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囲碁史記 第108回 本因坊秀哉誕生

 明治四十一年二月、田村保寿はニ十世本因坊秀元から家督を譲られ二十一世本因坊秀哉を襲名…

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囲碁史記 第109回 巌埼健造時代の方円社

三代目社長・巌埼健造 明治三十二年(一八九九)一月二十日、方円社社長・中川亀三郎が隠退…

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囲碁史記 第110回 巌埼健造の逝去 

巌埼健造の性格 抜群の行動力で、一時期勢いを失った方円社を盛り立ててきた巌埼健造だが、…

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囲碁史記 第111回 囲碁同志会と中川千治の方円社長就任

中川の方円社退社 明治三十二年に方円社三代目社長に就任した巌埼健造は、社の立て直しに尽…

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囲碁史記 第112回 秀哉の名人就位

月曜会 明治四十一年二月十八日に第二十一世本因坊秀哉となった田村保寿は、同年九月あるいは十月に八段へ昇段し、当主としての地位を固めていく。  本因坊継承をめぐり雁金派が「敲玉会」を設立したのに対抗して、本因坊秀元とともに合同の研究会を立ち上げていたが、小林鉄次郎の息子である小林鍵太郎の勧めもあり、明治四十四年に「月曜会」を立ち上げ、一月十五日に自宅にて初会が行われた。これは前年三月に秀栄夫人・土屋満基子が自宅(旧秀栄邸)にて「東京囲碁会」を立ち上げたことに対応するためだった

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囲碁史記 第113回 囲碁評論家の登場

新聞碁と囲碁雑誌 以前紹介したが、新聞に初めて碁譜が載ったのは明治十一年の郵便報知新聞…

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囲碁史記 第114回 大正期の囲碁の普及と廃止論

はじめに これまでも述べたが、明治維新後、西洋文化が流入すると、それまでの日本古来の文…

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囲碁史記 第115回 「評の評」事件

事件の発端 大正七年、囲碁史に残る事件が発生する。本因坊秀哉による野沢竹朝の破門である…

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囲碁史記 第116回 大正期の棋士

 明治以降、対立を続けてきた囲碁界が合流へと向っていく大正時代、本因坊秀栄や巌埼健造の…

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囲碁史記 第117回 大正期の棋士②

 前回、大正期に活躍した棋士を何人か紹介したが、他にもたくさんいるのでもう少し紹介して…

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囲碁史記 第118回 方円社、中川社長辞任と広瀬の就任

雁金の方円社復帰 大正八年四月、長らく囲碁界の表舞台から遠ざかっていた雁金準一が、十四…

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囲碁史記 第119回 日本囲碁協会の頓挫

 大正末期、囲碁界には急速に合流の機運が高まり、紆余曲折を経ながら日本棋院が設立される。  まず最初に動いたのが方円社の支援者・大繩久雄による「日本囲碁協会」設立構想である。 大繩久雄 大正末期の囲碁界合流に大きく関わる大繩は、文久二年二月二十五日に秋田藩士簗市三郎の次男として生まれ、大繩家の養子となり家督を相続する。  明治十三年に東京へ出て、苦学の末、十五年に農商務省へ出仕。二十一年に辞して旧藩主である侯爵佐竹義生氏の家扶となり、後に家令を務める。  明治四十一年に米

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