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囲碁史記 第118回 方円社、中川社長辞任と広瀬の就任


雁金の方円社復帰

雁金準一

 大正八年四月、長らく囲碁界の表舞台から遠ざかっていた雁金準一が、十四年ぶりに方円社へ復帰する。明治三十八年三月に方円社から本因坊秀栄門下へ移り、秀栄が亡くなった明治四十年に起きた後継争いに敗れて以降、自分の殻に閉じこもっていた雁金は、大正六年十一月に亡くなった十五世井上田淵因碩の後継者に推す声が高まった際、一時その気になっていたが、井上門内の相続争いに嫌気がさし、申し出を受けることはなかった。その雁金の方円社復帰に囲碁界は騒然となる。
 雁金の復帰には次のような事情があった。
 草創期の方円社を支えた小林鉄次郎の長男、小林鍵太郎は、その棋力を見た父に棋士となる事を禁じられ、小学校の教員となるが、父の死後、囲碁への思いを捨てきることが出来ず、囲碁雑誌を刊行するなど囲碁界と関わりを持ち続けていた。
 やはり、棋士となるという夢を諦めることが出来なかった小林は、方円社の広瀬平次郎へ相談する。当時、方円社は中川千治社長の時代で、巌埼時代の副社長であった広瀬は、経営から手を引いていたが、依然影響力を持っていた。
 方円社でも小林鉄次郎が鍵太郎を棋士にしないと言っていた事は知られていて、広瀬はそれを覆して入社を認めるために、小林と親しい雁金の方円社入社を条件に出したという。
 小林に懇願された雁金は鉄次郎に世話になり、鍵太郎とも懇意にしているという関係から、方円社への復帰を承諾した。
 久々に復帰した雁金は、ブランクを気にする声もあったが快進撃を続けていく。十六年ぶりの秀哉との対局も実現し、世間の話題となっている。

中川社長の辞任

中川千治(二代目中川亀三郎)

 雁金が復帰した頃の方円社は、財政的にかなり経営に行き詰っていたという。中川社長は就任当初、桜川町の会館に電話を引き、書記や女中を置くなど経営に力を入れていたが、有志の寄付金に頼る体質から抜け出すことが出来ず、先代巌埼時代の積立金を取り崩すようになり、やがて、行き詰っていった。
 中川社長は棋士としては実力があったが、経営者としての能力は高くなかったのかもしれない。中川の放漫経営が方円社の衰退を招いたという厳しい評価もある。囲碁同志会時代から同志である関星月は、「中川は愚直の人であったゆえ、真面目ではあるけれど、同時に無策無能の人であった。」と述べている。ただ、星月は同時に、このような状況になっても裏切り者が出なかったのは、中川の正直という美点によるもので、中川は術策をもって人を欺くという事が全然無かったとも言っている。
 巌埼時代の成功は、剛腕の巌埼の実績であるが、それを支えた副社長・広瀬平治郎の手腕なくして成し得なかったと言われている。しかし、巌埼は次期社長に広瀬ではなく、当時方円社から離れていた中川千治を指名した。広瀬は巌埼からそれを聞かされた時、了承するが今後経営には関わらないと言っていたそうで、この度量の狭さが方円社を追い込んでいったという研究家もいる。
 そうした中、大正九年七月十六日付で、方円社四代目社長中川千治は突如辞表を提出する。
 幹部の協議により、辞任の承認と、後任に広瀬平治郎を推薦することが内定する。広瀬推薦の可否は三段以上の社員にはかられ、異議のないことを確認し、正式決定している。
 矢野晃南の「囲碁虎の巻」(第8巻第9号) では「方円社長の更迭」と題し、次の ように伝えている。

 中川氏は未だ老齢職に堪へずと云ふにも非ず。又考ふる所ありとの捨言葉に徴すれば、辞職はその本意に非ざるが如く、其の間何者か大に事情あるを疑はずと雖も、結局事態已むを得ざるものの如く、蓋し広瀬氏が其の推薦を迎へて新社長の職を襲ひたるは因より一大抱負ありて然るべく、広瀬氏の責任や重、且つ大なりと謂はざるべからず。
  新任の責任重し方円寺

 晃南は辞任は中川の本意ではなく、何か事情があった事を匂わせているが、背景には方円社内における、中川派と広瀬派の対立があったと言われている。

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