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囲碁史記 第109回 巌埼健造時代の方円社


三代目社長・巌埼健造

三代目社長・巌埼健造

 明治三十二年(一八九九)一月二十日、方円社社長・中川亀三郎が隠退し、巌埼健造が三代目社長に就任する。亀三郎の時代、「四象会」の設立など本因坊秀栄が力を盛り返していたのに対し、方円社はかつての力を失っていて、巌埼にはその立て直しの期待がかかっていた。
 巌埼の性格は親分肌だったといわれ、困難な時代に社を引っ張っていくのに最適な人物であったといえる。しかし、ワンマンであったことから次第に社内には不満が高まっていったという。
 そのため、明治三十八年には雁金準一が本因坊秀栄の門に移り、明治四十年には副社長の中川千治が退社するなど、巌埼の方針に反発して社を去っていく有力棋士も多くいた。 

御徒町時代

新会館の準備

 巌埼は大正元年に社長を退くまで方円社を三度移転している。 
 最初は明治三十二年に社長を引き継いだ際に、方円社を下谷区徒町二丁目の自宅へ移している。

囲棋新報掲載の通則に記された方円社の住所

 巌埼がいつこの場所に居を構えたか不明であるが、少なくとも明治二十四年刊行の「囲棋等級録」には、この場所が巌埼の住所として記載されている。翌年に官を辞して方円社へ副社長として迎えられた時期である。
 以前紹介したが、明治二十六年三月に神田区錦町に新会館を建築した際、披露会で本因坊秀栄と巌埼の記念対局が行われているが、巌埼は長考派で知られ、朝十時頃から午後四時頃に打ち掛けとなるまで、僅か二十一手しか進まなかったという。巌埼は後にこの対局について、「どうせ打掛けになるのだから布石だけにして置いた。その間、碁の事ではなく、自宅に増築する稽古場の事を考えていた。」と語っている。
 つまり、社長となった時には、自宅を方円社の会館として使用する態勢はすでに整っていたことになる。

方円社の画

 御徒町の方円社には南画家として高名な滝和亭の絵が飾ってあったという。その絵について次のような逸話が残されている。
 巌埼は教場を自宅に移した際、当時有名な画伯、滝和亭に掛け軸を画いてもらいたいと思ったが、美術家などという者は、概して気が向かなければ画かぬもので、特に和亭画伯と来たら依頼を受けてから三年か五年で画けば早い方だと言われていた。健造も依頼を見合わせることにしたが、ある日、和亭は下手ながら大変碁好きであることを聞き、シメたとばかりに白扇十二本を買込んで、和亭宅を訪問した。
 和亭画伯は、方円社長の来訪を大変喜び、直ちに奥の間に招いて、初対面の挨拶が済むか済まぬ内に碁盤を持出して指南を請うた。健造は思う壺と内心大いに喜んだが、わざとトボケ面をして、「折角の思し召しだが、今日お訪ねし たのは、碁のお相手をするつもりで参ったのではござらぬ。かねて御高名を承わって居た折、測らずも御門前を通りかかったので御面識を得たいと存じて・・・」 と一応断わって見た。しかし、和亭は承知せず、酒肴まで出して大いに饗応し、ぜひにと迫るので、ここぞとばかりに「それならばこうしましょう。それがしは碁を生業とする者であるから、それがただで打ったとあっては商売にも影響するゆえ、それがしが負けたら、ただで御指南申すが、もしあなたが、お負けになった時は、扇面に画を描いて下さるという条件をつけてはいかがでしょう。幸い知人の土産にと買い求めた白扇がここにありますから」と提案した。
 和亭は元来賭け好きであり、「それは面白い」と承諾して対局を開始。しかし、和亭の実力は初級初段が関の山というのだから、四つか五つ置いたところで、たちまち負かされて扇面を画かされたという。
 念願の画が手に入った健造は、どうしてもすぐに画が欲しくてこのような芝居を打ったことを白状したところ、和亭は舌打して、「残念、そんな計略のあろうとも知らぬ拙者は、打たぬ前から負けて居ったわい」と言ったと伝えられている。

場所について

 御徒町にあった方円社の具体的場所について調査を行った。健造に関する書物を見てみると、自宅について「下谷区徒町二丁目三九番地(現在の台東区台東四丁目三〇番)」と記載されたものがいくつかあった。現在の地下鉄仲御徒町駅の近く、御徒町台東中学校の北側である。これで問題が解決したかに見えたが実はそうではなかった。

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