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囲碁史記 第108回 本因坊秀哉誕生


 明治四十一年二月、田村保寿はニ十世本因坊秀元から家督を譲られ二十一世本因坊秀哉を襲名する。世襲制最後の本因坊である。
 前回も述べたが、十九世本因坊秀栄が亡くなった後、田村と雁金準一との間で跡目争いが繰り広げられ、明治四十年三月にひとまず秀元が再襲したうえで、秀栄の一周忌を待って田村へ家督が譲られた。

秀元再襲後の動向

 秀元の再襲により、本因坊家の跡目問題は表面上落ち着きを見せるが、雁金を中心とする未亡人派は同年六月に「敲玉会」という研究会を作り結束を固め、これに対し秀元と田村は「囲碁研究会」を同年八月十八日に発会。両派の対立の構造は継続されたままとなる。
 小林鉄次郎の長男鍵太郎が明治四十年 八月に創刊した『囲碁雑誌』という月刊誌には、「発刊之辞」の中に次のような記述がある。

 然レドモ余はかたク父(鉄次郎)ノ遺志ヲ守リ、又先生(秀栄)ノ遺策ヲ奉ジ、奮発勉励シテ事ニ当リ、殊ニ同門ノ士関源吉氏等ノ熱心ナル尽力ニ依リ、弥々いよいよ今茲ニ敲玉会ナルモノヲ設立シ、同時ニ本誌発行スルノ機運ニ際会シ、多年ノ宿望始メテ達シタリ。云々。

囲碁敲玉会設立之趣旨
 今般生等碁道研究の為め本会を組織し、兼て左の日割を以て囲碁を教授致候間、御同好の諸賢奮って御光臨あらんことをひとえ奉希望ねがいたてまつり候。
  明治四十年夏
 六段 雁金準一  五段 伊藤小太郎  五段 関源吉
 三段 伊沢厳吉  三段 井上孝平
 三段 小林鍵太郎 三段 都谷森逸郎
一 手合会 毎月第一日曜日
一 教授日 日曜 金曜
一 時間  午前九時より午後十時迄
一 会費  一ヵ月 金壱円
一 会場  東京市本郷区湯島天神町一丁目七十七番地
           故十九世本因坊宅

 臨時来会者は手合日には五十銭、稽古日には三十銭を申 し受けるとあった。
 小林鍵太郎も会員であったので『囲碁雑誌』は実質的に敲玉会の機関誌の役割を果たしていたのだろう。
 なお、秀栄の主宰していた日本囲棋会が解散したのは、正式には明治四十年十月三十日であるが、坊門内の対立により、この頃にはすでに有名無実化していたと考えられる。
 そのため、敲玉会は雁金派の結束を固めるためと共に、満基子夫人の生活を支える目的もあったと考えられている。

 この時期、秀元に関する色々な噂が流れているが、これは雁金派のネガティブキャンペーンであったと考えられる。
 例えば秀元夫妻の問題である。秀元の妻かめは、兄秀悦の元妻であり、そのため、秀悦が精神に異常をきたしたのは二人が浮気をして子供ができたことにショックを受けたからだという噂が流れたのだ。しかし、二人の間に子供が生まれたのは明治十六年以降のことで、すでに秀悦は隠退している。そのため秀元は実兄の看病に疲れ果てた兄嫁に同情し恋仲になったのではないかと考えられている。家を残すという観点から兄の死後、弟と兄嫁が結婚するという話しは昔からよくあることである。ただ、秀悦が亡くなったのは明治二十三年であり、かめは秀悦と離婚したうえで秀元に嫁いでいる。当時秀悦に判断能力があったのか定かでは無く、秀元との間に子供が出来てしまったための措置かもしれないが、こうした混乱が雁金派に付け入る隙を与えてしまったのかもしれない。
 この他、秀元は田村に金で買収されたとか、田村に籠絡されて言いなりになっているという陰口をたたく者もいたが、秀元は最も強いものが本因坊を継ぐべきだという信念に基づき行動しただけだと、時事新報の矢野由次郎氏はこうした噂話を否定している。

敲玉会に対抗して本因坊秀元と田村保寿が共同主宰する囲棋研究会が発会、こうし て坊門は分裂したまま年を越し、翌年に秀元 が田村に本因坊を譲ることとなる。

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