囲碁史研究家の視点により、囲碁の歴史を貴重な資料をもとに解説。
No.2は囲碁史記 第25回から第41回まで
碁聖本因坊道策の後継者の時代から低迷期を経て本因坊察元、烈元の登場に…
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囲碁史記 第29回 御城碁について
御城碁の変遷 御城碁には、定例的な対局と、争碁を兼ねて行われる対局がある。経緯を見るに、安井家と本因坊家の碁所をめぐる確執が、御城碁の中に持ち込まれ、それにより御城碁の有り様も変化していった。
両家の確執は中村道碩の後継を巡り正保二年(一六四五)に行われた本因坊算悦と二世安井算知の争碁に始まり、寛文・延宝を経て宝永(一七〇四~一〇)へと続く。寛文八年(一六六八)、幕命により二世安井算知が碁所に
囲碁史記 第31回 六世本因坊知伯
本因坊知伯 本因坊知伯は宝永七年(一七一〇)に武蔵で生まれた。本姓は井口氏。五世本因坊道知が碁所に任命された翌年の享保七年(一七二二)四月に本因坊跡目として出願され六月に認可された。このとき十三歳である。願書によれば知伯は道知の甥となっており、手合は上手に二つ置く者(三段)に勝ち越しているとある。つまり跡目になったときは四段格であり、この年から御城碁に出仕している。
知伯の死 享保十一年十二月
囲碁史記 第37回 十世本因坊烈元
烈元の出生地 察元の名人碁所就任によって本因坊家は大いに栄えていく。
そんな察元の跡を継いだのが十世本因坊烈元である。烈元は寛延三年(一七五〇)の生まれである。
出生地についてはこれまで江戸の生まれで「幕府御数寄屋方組頭の山本家」が実家といわれてきた。明和七年(一七七〇)、二十一歳六段のときに跡目となり、「山本家」については跡目願のときに提出されたものと考えられるが、その手続きで必須の親類書