囲碁史記 第34回 八世本因坊伯元
伯元の生涯
八世本因坊伯元は武蔵国幸手郡天神島村(埼玉県幸手市)の尾崎家出身で、天文五年(一七四〇)、十五歳の時に七世本因坊秀伯の門下に入る。幸手市は伯元の後も九世察元、十世烈元を輩出している。
尾崎家は農家であったといわれ、どのようないきさつで伯元が本因坊門となったのか分かっていない。しかし、伯元は入門の翌年に秀伯が危篤となると家元会議において跡目に選ばれている。安井家五世仙角が付添人となって寺社奉行へ相続願が提出され八世本因坊を継承、同年に御城碁へ初出仕している。
入門後、僅か一年で家元となるのはどう考えても普通の状態ではない。伯元が入門した頃には師の秀伯はすでに病を発症していたと見られ、であれば伯元は当初から後継候補であったとも考えられる。その辺りについては今後の研究が待たれるところである。いずれにしても、当時は六世知伯、七世秀伯と本因坊家当主が続けて二十代で亡くなり囲碁界全体が低迷する暗黒の時代と言われた時期で、特に本因坊家の人材不足は深刻な状態だったのかもしれない。
伯元については棋譜も少なく史料に乏しい。ただ、この時期に三度目の琉球使節が訪れるなど色々な出来事が起きている。そして、伯元がまだ若かったために五世井上因碩(春碩)が囲碁界のトップとして関わっていくことになるが、それについては次回に述べることとする。
その様な状況で本因坊を継承した伯元であったが、宝暦四年(一七五四)四月に重病となっている。そして二十二歳の間宮察元を跡目にすることを決意し寺社奉行へ願出たが、奉行は伯元もまだ若く跡目を急ぐに及ばぬ、養生して回復してからでも遅くないと一度は差し戻した。その際の願書については察元のところで述べることとする。
しかし、八月に至って伯元の病はますます重くなり、同月三日に再度跡目を願い出て、十日に察元が呼び出され跡目を許される。
伯元は九月二十六日、二十九歳で逝去、三代にわたり当主が二十代で亡くなった本因坊家の低迷は今しばらく続くこととなる。
故郷幸手市の墓
伯元は歴代本因坊が眠る本妙寺へ葬られたが、近年になって埼玉県幸手市の尾崎家の墓所からも墓石が発見された。ここで一つ触れておきたいのは、これまで多くの囲碁史書に「小崎」と記されていたが、ここでは「尾崎」となっている。さらに伯元の墓石の右上には「御碁所」の文字を見ることができる。役職としての碁所ではなく、碁技により禄を受けた者をそう呼ぶ事があったという。墓石には伯元の他に二名の戒名が刻まれているが一族と思われる。左下に名が刻まれている尾崎兵蔵は建立者であろうが、伯元との関係は現在のところ不明である。
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