囲碁史記 第32回 七世本因坊秀伯と低迷の時代
七世本因坊秀伯
まず七世本因坊秀伯の親類書を記す。
佐藤秀伯親類書
父 野田三郎左衛門代官所奥州信夫郡上飯坂村百姓 佐藤勝右衛門
母 右同所百姓 佐藤太右衛門娘
叔父 右同断 佐藤兵左衛門
弟 父手前罷在候 佐藤庄吉
従弟 右同国同村名主 佐藤弥五右衛門
右之外忌懸り無御座候、以上
享保十八年丑年九月 領国生国奥州 秀伯
丑拾八歳
寺社御奉行所
本因坊秀伯は享保元年(一七一六)、陸奥国信夫郡上飯坂村に生まれる。
実家は百姓であるが佐藤姓があるところを見ると、名主、庄屋級の家柄であったのではないだろうか。親類書には弟の名があるが兄の名がないため秀伯が長男ということだろうが、この時代、跡取りである長男を碁打ちにするということは考え難いことである。弟が跡を継いだか、秀伯は次男で本因坊門となった後に長男が亡くなったのかもしれない。
秀伯は六世本因坊知伯が急死した際、奥州に帰郷中で、後継者として急遽呼び戻されている。そして享保十八年、十八歳の秀伯は五段で御城碁に初出仕した。
秀伯の生家 佐藤家
秀伯も知伯と同様若くして没している。享年二十六。しかし、この秀伯の短い生涯の中で、囲碁界ではいくつかの事件、騒動が起きている。それについては後から述べるとして、その前にまず佐藤家について見ていきたいと思う。
これまで、囲碁史関連で佐藤家については先ほど述べた程度の内容しか分かっていなかった。ところが秀伯の地元である福島県在住の囲碁史研究家猪股清吉氏が調査を行った結果、色々な事が判明した。猪股氏は地元とあって秀伯の研究に関して右に出るものはいない。
秀伯の故郷、福島県福島市飯坂町にある飯坂温泉は、福島駅から福島交通飯坂線に乗り20分余りのところ(終点飯坂温泉駅)にある。
飯坂温泉の歴史は古く、日本武尊が東征の際に湯治に使ったという伝説もある。また、街道が整備された江戸時代には多くの旅人が訪れ、「奥の細道」の旅で滞在した松尾芭蕉が紹介しているほか、明治以降も与謝野晶子や正岡子規らが訪れ歌や句を残している。
猪股氏は検地帳を調査し、佐藤家は本家分家とも名主であったことを突き止めている。佐藤家の資料によると三代目の時代が最盛期であり、常泉寺の湯守(温泉の管理人)を務め温泉経営もしていた。
飯坂温泉にある常泉寺は、約千年前に太平寺として創建され、慶長元年(一五九五)に福島長楽寺五世の立質金祝和尚によって中興開山される。この時、境内に飯坂温泉の名湯の一つ「滝の湯」があったので、巌湯山の山号をもち常泉寺を寺号としている。この三代目の弟が秀伯の父であり、親類書にある従弟佐藤弥五右衛門は四代目ということになる。父は新家を興すことなく佐藤家の盛んな家業に就いてそのまま生家に骨を埋めている。秀伯は長男であったが弟もいたため自由な立場にあったと想像できる。
これから本因坊秀伯自身とその時代について述べていこうと思っているので順序が逆になってしまうが、先に故郷の墓所について紹介する。先に述べた佐藤家が湯守をしていた常泉寺は佐藤家の菩提寺でもあり、秀伯が寄進した木魚も存在している。そこへ猪股清吉氏等関係者の尽力により二〇〇八年に墓碑と顕彰碑が建立されている。
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