囲碁史記 第27回 名人因碩の晩年と本因坊道知の名人就任
名人因碩の著作
『発陽論』
名人因碩には幾つかの著作がある。その代表的な著書が『発陽論』である。発陽論は現在でも難解詰碁集として知られ、多くのプロ棋士が修行時代に勉強している。何度も再版され、何人かのプロ棋士が解説書を出している。
発陽論は、もともと井上家の門外不出として伝わってきた。門人が高段を許されたときに奥伝として与えられたものと考えられ、別名「不断桜」と言われていた。
版本としては大正三年十二月に十五世井上因碩(田淵米蔵)が二十一世本因坊秀哉と共同校訂したものが最初と思われていたが、戦後、正徳三年(一七一三)八月十四日付のものが荒木直躬氏によって偶然発見されている。
発陽論には間違いが幾つか見受けられると言われていたが、荒木氏の発見により、書き写す際に書き手が間違えていたことが確認された。
日本棋院東京本院の最寄駅であるJR市ヶ谷駅の構内へ二〇一〇年に「長生の図」の囲碁モザイクアートが作成された。「長生」とは同手順を繰り返すことにより永遠に石が死ぬことのない珍しい形で、長寿を連想させる縁起のいいものとされている。モザイクアートは『発陽論』からのものであり、説明版も設置されている。
『黒白死生考』
名人因碩の著作は発陽論が有名であるが、それ以外にも『黒白死生考』というものもある。
現存するものは写本であるが『黒白死生考』は『発陽論』より成立が早く(宝永二年以前)、囲碁界でもほとんど知られていなかったが、昭和四十三年に囲碁史展に出品されたことで存在が認識されるようになる。後に林元美が『碁経衆妙』に採り入れた図もあるが、その際に、黒白を入れ換えたり、石の形を少し変えたりと工夫している。
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