囲碁史記 第30回 拝領屋敷について
徳川幕府成立初期の碁打ち衆はいずれも上方の出身であった。徳川家康の坊主衆であった林門入は別としても、本因坊算砂、利玄、中村道碩、安井算哲、井上因碩らは上方を本拠とし、毎年江戸へ長期出張するという形で任務についていた。これは後継である本因坊算悦や安井算知も同じであった。
これら碁打ち衆は幕府から給された切米や扶持、拝領した黄金や白銀、時服をもって上方と江戸で本人や家族、弟子達の生計を賄っていた。そのため、江戸に拠点が無い碁打ち衆は、幕府より屋敷を拝領している。
本因坊算砂は、江戸での住居用として日本橋に屋敷用地を下し置かれたが手に余ることになり、屋敷用地を返上したという記録が『本因坊家伝』にある。
安井家については、一世安井算哲より跡を継いだ安井算知は、三代将軍徳川家光の異母弟である会津藩主の保科正之と交流があったことから、芝の保科家の屋敷内にあった長屋に居住していた。これは三世安井知哲、四世安井仙角の晩年まで続いた。仙角は晩年に浜町へ引っ越したが、五世安井春哲の代までは保科家(松平家)より扶持をもらっていたという。安井家と保科家の関わりについては以前に述べている。
上方を拠点にしていた江戸時代初期の碁打ち達は、三月下旬に上方から江戸へ下って四月から勤務し、十二月に御暇もらって年内に上方の自宅に戻って過ごすという生活だったようだ。
しかし江戸時代も進むと家元制度が確立し、活動の中心は江戸へと移っていく。上方と江戸の往復はかなり厳しく、碁方の本因坊家、安井家と将棋方の大橋家、伊藤家といった家元達は幕府へ屋敷の拝領を願い出る。『碁所旧記』によるとこのときに願出たのは本因坊道悦、安井算知、一世林門入、将棋大橋分家の大橋宗与、伊藤宗看で。井上因碩と大橋本家の五代大橋宗桂は加わっていない。
幕府への屋敷の拝領願いは何度も行われたようであるが、寛文七年(一六六七)十二月になり、ようやく本所に並びの約二〇〇坪の宅地があてがわれる事となった。本所は隅田川を渡った両国辺りで、十年前の明暦の大火により江戸の町の都市計画の一つとして開発が進められた地区の一画であった。しかし宅地の整備が遅れていたようで、当分の間は仮の場所として寛文十年に碁方の三人は芝金杉に、将棋方の二人は麻布日窪に屋敷があてがわれた。
芝金杉は現在のJR浜松町駅の近くを流れる古川(地域称は金杉川)の南岸にあり、その金杉川に架かる金杉橋付近には古くから漁民が多く住んでいた。金杉橋は江戸時代には、島流しとなった罪人を運ぶ遠島船が出る橋として知られ、吉良邸討入りを果たした赤穂浪士が、主君浅野内匠頭の墓がある泉岳寺へ向かう際に通過した橋としても知られている。
なお、現在の古川は上に首都高速が通っていて当時の面影は無いが、金杉橋付近には多くの船が係留され、古くから漁業で栄えた様子を僅かに伝えている。
本因坊家は四世本因坊道策の時代である貞享五年(九月三十日より元禄元年・一六八八)に芝金杉から本所相生町弐丁目に京間で三〇〇坪三方の町屋敷を拝領し移転している。本因坊家は明治に入るまでここを拝領し続けた。現在は跡地のマンションに「本因坊屋敷跡」の案内板が立てられている。
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