囲碁史記 第37回 十世本因坊烈元
烈元の出生地
察元の名人碁所就任によって本因坊家は大いに栄えていく。
そんな察元の跡を継いだのが十世本因坊烈元である。烈元は寛延三年(一七五〇)の生まれである。
出生地についてはこれまで江戸の生まれで「幕府御数寄屋方組頭の山本家」が実家といわれてきた。明和七年(一七七〇)、二十一歳六段のときに跡目となり、「山本家」については跡目願のときに提出されたものと考えられるが、その手続きで必須の親類書(戸籍)は残されておらず、『新編増補坐隠談叢』や『御城碁譜』ではいきなり、「烈元は幕府御数奇屋組頭・山本氏の男なり」で始まり、「幼より察元の薫陶を受け、二十一歳のとき跡目に抜擢された」とあるのみである。『御城碁譜』を丹念に見ていくと、寛政十年(一七九八)に烈元が寺社奉行へ提出した元丈を跡目弟子にする際の口上覚や由緒書では「生国武蔵四十九歳」と記されているので、執筆者はこの矛盾点に気付かなかったのだろうか。あるいは江戸出生でないことを知りながらあえて無視したのかもしれない。
烈元は明和七年までに一時期、澤村姓を名乗っている。棋譜等にも「澤村烈元」と記されたものがあるが、どのような事情があったのか不明とされた。ところが、平成十五年に埼玉県幸手市にて八世伯元、次いで九世察元の墓が相次いで発見されたのをきっかけに市内上吉羽の澤村家の墓所より、十世烈元の墓が発見される。これにより、これまで謎とされていた「澤村」の方が本当の実家であり、家の格式を上げるため「山本」の養子として手続きが行われたという結論が出された。こういったことは大名家の婚姻においても女性の家の身分が低いときに、一旦身分の高い家の養女という扱いにして行われるなど、よくあることであった。実際、本因坊家でも、後の十二世本因坊丈和のときになされている。
烈元の道場
烈元は天明八年(一七八八)に察元の死去により十世本因坊となり、文化五年(一八〇八)に死去するまで囲碁界を支えていく。八段まで昇段し、十一世本因坊元丈をはじめ、多くの優秀な人材を育成した。ここから囲碁界は黄金時代を迎え飛躍的に進歩していく。
本因坊家の拝領屋敷は道策以来、本所相生町にあったが、幕府役人の名簿である武鑑によると、烈元の住所は湯島石坂下となっている。必ずしも拝領屋敷に当主が住んでいるとは限らず、別の場所に顧客への指導碁や人材育成に便利な場所へ居を構えることもあったようだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?