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囲碁史記 第111回 囲碁同志会と中川千治の方円社長就任


中川の方円社退社

中川千治(二代目中川亀三郎)

 明治三十二年に方円社三代目社長に就任した巌埼健造は、社の立て直しに尽力していくが、そのワンマンぶりに一部の社員に不満が高まっていく。
 明治三十八年、副社長の中川千治、広瀬平次郎、岩佐銈は雁金準一を担ぎ巌埼へ抗議したが、老獪な巌埼に雁金以外は籠絡され、雁金は本因坊秀栄の門へ移っていく。
 騒動は一段落したものの、その後も不満はくすぶり続け、明治四十年九月、我慢の限界を超えた中川は方円社を退社し独立する。
 中川千治、旧姓石井千治は方円社最初の塾生で、林家分家である林佐野の養子となるが、その後解消。二代目社長中川亀三郎の遺言で中川家を相続していた。亀三郎は当初、千治を三代目とするつもりであったが、巌埼を無視することが出来ず、断られる事を前提で後継を打診したところ、巌埼が受諾してしまったといわれている。
 中川千治は退社後、神田五軒町の自宅を拠点とするが、この家は高田民子の寄贈により先代亀三郎が晩年を過ごした隠宅である。
 以前も紹介したが、中川は退社三ヶ月後の十二月に、雑誌「日本及日本人」主催の田村保寿との十番碁を開始し、古島一雄が日本初の観戦記を書いている。

囲碁同志会の結成

 明治四十二年五月、中川を中心とする十一人の棋家、棋客、および一人の囲碁評論家により「囲碁同志会」が結成される。
 以下がその宣言書である。

   宣 言
 方今、棋界分立ノ弊頗ル甚シキモノアリ。為ニ各自研鑽ノ機ヲ失フノミナラズ、延テ斯道ノ頽廃ヲ来サントス。生等、棋界徒ニ広クシテ棋道漸ク衰へ、棋客愈多クシテ棋品益下ルヲ見、深ク之ヲ憾トシ、先ヅ従来ノ情弊ヲ一掃シ、新ニ斯道ヲ研究スルノ会ヲ設ケテ之ヲ囲碁同志会ト称シ、機関雑誌ヲ発刊シテ其学ブ所ヲ公ニセントス。従テ来リ会スル者ハ必シモ派ノ異同ヲ問ハズ。技ノ高下ヲ論ゼズ。要ハ斯道ノ発達、隆盛ニ貢献セントスルニ在ルノミ。若シ夫レ此ニ因テ棋界革新ノ曙光トナリ、棋壇統一ノ端緒トナルヲ得バ、実ニ望外ノ幸ナリトス。
   明治四十二年五月
        中川 千治   岩佐 銈
        降矢沖三郎   高部 道平
        長野敬次郎   野沢 竹朝
        喜多 文子   井上 孝平
        都筑 米子   田阪信太郎
        鈴木為次郎  編輯主任 関 節蔵

 事務所は神田五軒町の中川宅に置かれ、発会式は上野新坂下の「伊香保楼」で行われている。手合は解散まで四十回を数えた。
 機関誌『囲棋世界』は、関節蔵(星月)編輯により、明治四十二年七月に創刊。大正元年十一月 第四巻第十一号まで、通算四十一号まで刊行されている。

伊香保楼

 囲碁同志会の発会式が行われた伊香保楼の詳細について少し詳しく紹介しよう。

新坂

 現在の上野公園から山手線を跨ぎ根岸に至る坂を「新坂」という。明治期に造られたためその名が付けられたが、少なくとも明治十一年頃には存在していたようだ。坂の途中にある鶯谷駅が出来たのは明治二十年頃のことである。
 その坂下には、かつて「伊香保楼」という大規模な料亭があり、群馬の伊香保温泉から鉱泉を取り寄せ、伊香保温泉の支店として営業していたという。

伊香保楼跡付近(台東区根岸1丁目2-22 三井リパーク鶯谷駅前第2)

 伊香保楼跡について調査したところ、古い資料の中に鶯谷駅ホームぎわからスター東京側、藤田などホテル街一円一帯で、敷地三〇〇〇坪、木造三階建て、建坪五〇〇坪とあった。「スター東京」は昔鶯谷にあったキャバレーで現存していない。現在のホテルシャーウッドの隣りにある駐車場(三井リパーク)あたりが跡地である。
 囲碁界において「伊香保楼」は度々耳にする場所である。
 「囲碁同志会」の会場として使われた他、大正三年(一九一四)に岩佐銈の六段昇級披露会、大正五年(一九一六)には内垣末吉が引退し満州へ移住することになったため、坊社合同の送別会が開催されている。また、大正六年(一九一七)には瀬越憲作五段昇級披露会等も行われた。

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