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囲碁史記 第110回 巌埼健造の逝去 


巌埼健造の性格

巌埼健造

 抜群の行動力で、一時期勢いを失った方円社を盛り立ててきた巌埼健造だが、反面、ワンマンともいえる性格で社員の反発を招き、方円社を離れた人物もいる。
 そこで、今回は最初に改めて巌埼の性格について紹介していく。

潔癖症

 教場として使い、方円社を移転させた御徒町の自宅は、小松ノ宮、山田顕義、山県有朋、芳川顕正、伊藤博文ら要人が出入りしていたため、玄関脇に馬けい所を整備し、増えていく門弟のために対局室を増築するなど、次第に豪壮な邸宅になっていったという。しかし、自身は四畳半の茶室で質素に暮らし、五十過ぎまで木綿の服を身につけたという。
 巌埼健造は潔癖症であったともいわれ、毎朝、庭を散歩する際に割り箸を持ってごみを拾い、座敷の柱を自ら磨いてピカピカに光らせていたという。
 後年、門弟の岩佐銈や女中を連れて寄席に落語を聞きに出かけていたが、落語を聞きながら自分だけでなく、連れにも碁石を磨かせていたと伝えられている。
 瀬越憲作は昭和三十七年に行われた五十回忌法要の際に追憶談を雑誌に寄稿しているが、その中で御徒町の巌埼の自宅には三人の内弟子がいて、毎朝六時ごろに起きて碁盤や碁石の手入れをしていた。だから碁石はピカピカで、打っていて気持ちが良かった。現在ではこんな修行をするところはないようだが、こういう修行も精神を磨く上に、ある程度必要なことであると思うと述べている。

礼儀作法に厳しかった巌埼

 巌埼健造は、ともかく碁に関する礼儀作法に厳しかったと伝えられている。
 明治期の囲碁界の有力支援者であった黒田長知侯爵の屋敷に、ある日、多くの芸人が招かれ、巌埼も参加していた。しかし、食事時になり、黒田公が「一同下がって支度せい」と言ったところ、巌埼は「己れが師事する天下の碁打に対して、下って支度せよとは其意を得ぬ、上座に据えて歓待するのが当然だ」と怒り、貰った御祝儀も包みのまま返して帰宅、以降、招かれても出入りすることはなかったという。もっとも大名であった黒田家では従来から碁打ちを家憲のように扱い、祝儀も少額であったことから、こんな安い日当では動かないという計算づくの行動だったともいわれている。

 囲碁の愛好家として知られた伊藤博文との逸話も残されている。
 ある時、伊藤公に招かれ、碁の相手をしていた巌埼は、酒を飲みながら盤上に杯を置いたり、胡坐を組んで教えを受ける伊藤公に対し、「盤はこれ領土、石はこれ兵で、互いに戦略を凝らして、天下分け目の勝敗を争うという場合に、胡坐を組んだり、領土の上に杯を置いたりするのは、言語道断といわねばならぬ。一国の宰相としては偉いかもしれぬが、礼儀作法も知らぬ人のお相手をするのは真平御免」と言って帰ってしまったと伝えられている。

 徳川慶喜公の指南を勧められた時も、そうであった。
 慶喜公は中川亀三郎の指南を受けるなど方円社との関わりが深かったが、元将軍である慶喜公に対しては、対局の席にいざって行き、顔を上げないで打つ事が慣例となっていたため、師匠である以上、そんなことは出来ないと一度断っている。結局、それまでの慣例を破り、対等の立場で相手を務めることが認められたという。
 下谷の屋敷では、皇族に対しては玄関まで見送ったが、華族は見送らなかったといい、碁道については毅然とした態度をとっていた。そうしたことから、人々は巌埼を当時下谷で暮らしていた書家平戸青州、漢学者の中根半嶺とともに「下谷の頑固三羽烏」と称していたと伝えられている。

巌埼の指導

相手に合わせた指導

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