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囲碁史記 第113回 囲碁評論家の登場


新聞碁と囲碁雑誌

 以前紹介したが、新聞に初めて碁譜が載ったのは明治十一年の郵便報知新聞である。しかし、同紙はやがて経営者が変わり囲碁欄を廃止、明治二十年代にようやく復活するが、本格的に碁に力を入れ始めるのは「報知新聞」と改題した大正になってからである。
 新聞主催の対局が初めて催されたのは明治三十一年九月十一日付けの 国民新聞からである。
 時事新報は明治二十九年に「碁の栞」と題して対局譜を掲載し始め、自社主催の棋戦を企画したのは明治三十四 年二月の「囲碁新手合」からである。萬朝報は明治三十八年十 一月に「碁戦」を開始し、この二つの棋戦が明治後期から 大正にかけての主流となっている。そして、明治四十二年には 東西の主要新聞がことごとく碁を載せ始め、その風潮に 中央新聞が淅川生の「囲碁亡国論」を掲載して反発を買っている。なお、その中央新聞までが間もなく囲碁欄を創設し ている。
 一方囲碁の雑誌としては方円社の機関誌『囲棋新報』が有名である。大正十三年の日本棋院創立まで第五百十五号を数えている。また、方円社からは『青年囲碁研究会新誌』や『囲棋初学独習新報』(後に『囲 碁初学新報』と改題)などの姉妹紙も誕生している。
 明治四十年八月には『囲碁雑誌』(小林鍵太郎)を創刊。これを契機に、後述するが、明治四十一 年一月に『方円新報』(胡桃正見(楽石)・『棊界新報』と改題)、明治四十一年八月に『囲棊界』(広月凌(絶軒))、明治四十一年十月に『棊』(安藤豊次 (如意)・関西囲碁会機関誌)、明治四十二年七月に『囲棋世界』(関星月編輯・囲碁同志会機関誌)、 明治四十四年二月に『囲碁之友』(中村英三編輯)、同年十月に『中京棋界』(稲垣兼太郎編輯)等、次々と囲碁の雑誌が創刊されていく。

囲碁評論家の影響

 明治末期から大正初期にかけて、多くの囲碁雑誌が刊行され、それらにペンをとる、胡桃楽石、安藤如意、山田玉川、矢野晃南、関星月、広月絶軒ら囲碁評論家の登場は、囲碁界に大きな影響を及ぼしていくこととなる。
 例えば、互先、先など対局時のハンディを定める手合割について、当時道策の時代から続く段差半子(二分の一)制が採用されていたが、胡桃楽石は、二子置いたとしても、置き碁は白から打ち始めるのだから純然たるニ子ではないとして、三分の一子制の採用を誌上で提唱している。手合割が見直されるのは十年後の日本棋院設立時であるが、胡桃はその先駆者ともいえる。
 大正三年に本因坊秀哉が名人に就位した際、胡桃は就位そのものに否定的ではなかったが、巌埼亡き後、争碁を挑むものは誰もおらず、「実に太平の世の中だ」と皮肉を込めて論評している。
 胡桃は秀哉が主宰する月曜会での内容を公表しなくなったことも、閉鎖的だと批判しているが、秀哉に近い広月絶軒は、本来、名人は打たぬもので、研究会で相手してもらえるだけで参加者は喜ぶべきだと擁護するなど論戦が繰り広げられている。
 この他、安藤如意や山田玉川は、大阪にて井上家継承問題などに関わり、矢野晃南は秀栄の支援に尽力するなど、囲碁評論家は門人とは違う立場で当時の囲碁界と大きく関わっていく。

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