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囲碁史記 第112回 秀哉の名人就位


月曜会

本因坊秀哉(大正三年頃)

 明治四十一年二月十八日に第二十一世本因坊秀哉となった田村保寿は、同年九月あるいは十月に八段へ昇段し、当主としての地位を固めていく。
 本因坊継承をめぐり雁金派が「敲玉会」を設立したのに対抗して、本因坊秀元とともに合同の研究会を立ち上げていたが、小林鉄次郎の息子である小林鍵太郎の勧めもあり、明治四十四年に「月曜会」を立ち上げ、一月十五日に自宅にて初会が行われた。これは前年三月に秀栄夫人・土屋満基子が自宅(旧秀栄邸)にて「東京囲碁会」を立ち上げたことに対応するためだったのかもしれないが、以降、月曜会は秀哉の活動の拠点となり、多くの門弟が育っていく。
 なお、会の名称は文字通り例会が月曜に行われたことに由来している。方円社は定例会を毎月第一、第二水曜日、中川千治の囲碁同志会は日曜日に行っていた。

名人への布石

 大正三年、本因坊秀哉は一門の推挙を受け入れるという形で名人に就位する。十九世本因坊秀栄没後七年後で、明治以降二人目の名人である。
 師匠秀栄に疎まれ、一時は本因坊継承も危ぶまれたが、秀元の支援を受けそれを切り抜け、ようやく囲碁界の頂点に登り詰めたのである。秀哉がどのように布石を打ち名人となったのかまとめてみた。

 以前紹介したが、明治三十九年に十五世井上因碩を襲名した田淵米蔵は、四十二年に東京へ出て研鑽を積んでいるが、この時、秀哉とも親交を結んでいる。関西へ拠点を移したとはいえ、井上家との関係強化は秀哉が名人となるための必要な一歩となる。
 明治四十四年に「秀栄全集」が刊行されたが、著者は個人名ではなく「故名人秀栄棋譜保存会」となっており、発行名儀人は土屋秀元、没後は長男の萬吉であった。秀栄に実子がなかったためであるが、いずれにしても本因坊家当主の秀哉が実質的上の編集代表者であったと考えられ、秀栄の関係者との関係改善も意図されていたのではないかと言われている。
 その翌年頃より秀哉は他門の五段の棋士を数多く六段に昇段させている。
 明治四十五年一月に方円社の広瀬平治郎の昇段にともない秀哉はその昇段披露会に出席したが、それに影響されたのか、四月には内垣末吉を六段、高部道平を五段に進め、六月には中根鳳次郎、 七月には稲垣兼太郎を六段に昇格させる。
 同年六月五日には、井上因碩も一門の推薦により六段に昇進している。家元自身の昇段は先代の墓に参り報告するのみで免状などは必要ないが、これもまた秀哉の働きかけがあったのではないかと言われている。因碩の披露会のため、秀哉は方円社の中川と共にわざわざ神戸まで出向いている。
 秀哉がこのように他門も含め多くの棋士を昇段させたのにはどういう意味があったのだろうか。
 第一に彼らに恩を売ったこと。第二に六段へ昇段した棋士と先二を打てる実力差があり、自分は九段になって当然という既成事実を作り上げること。第三には、巌埼、中川は別格として、六段の棋士を増やすことで、今後自分にとって脅威と成り得る雁金六段の価値を低下させようとしたと考えられる。
 また、秀哉にとって都合のいいことに、方円社でも大正二年に降矢冲三郎、三年には岩佐銈を六段に昇進させている。
 通常、誰かが高段位に昇る場合、バランスをとるためその段位に永くいる者を合わせて昇段させることが多いが、秀哉は雁金を昇段させることは無かった。雁金自身も秀哉からの免状を望まなかったのかもしれない。雁金が七段となるのは大正十四年、新しく設立された日本棋院に対抗するために結成された棋正社においてである。

名人就位

 このように、着々と名人となる準備を進めてきた秀哉に絶好の チャンスが訪れる。
 当時、万朝報の碁戦と時事新報の囲棋新手合に代表される勝継ぎ戦あるいは敗退戦と称される新聞碁が人気であった。多くが五人抜きに懸賞をつける勝負であり、万朝、時事いずれも方円社長あるいは本因坊が講評していた。
 そして、大正二年に野沢竹朝が時事新報で通算五回目の五人抜き、次いで万朝報でも五人抜きを達成し盛り上がっていた。そうした中、本因坊秀哉が時事新報に登場し、井上孝平(四段、二子)を破ったのを皮切りに、持碁打直しを含め、高井虎三郎(四段、二子)、野沢竹朝(先二、二子番)、土屋秀元(先二、先番)、内垣末吉(六段、先)を破り五人抜きを達成する。
 続いて行われた五人抜きも勝ち抜き十人抜きを達成すると、時事新報の矢野晃南は秀哉を雑誌の論説で賞賛する。

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