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中学の恩師もりかん

私は親父が"親というより教育者"と言われるような人で(実際には自由で豪快でカリスマな人なのだけど)、おかげで私はパターンを持っている。
所々でいい出会いがあり、その先生たち/Prof.についていって自分を鍛えたらいい結果になった、という経験が何度もある。

まずは、中1の担任である。担当は国語で、私の中学に来たばかりだった。
画像がトマトなのは、そんな髪型で、そんなイラストを親友が描いていたからである。笑


道を正してもらう

中学に入ってまもなく、私はこの人に呼び出された。理由は当時流行っていたチェーンメールをだれかに転送したからであり、
「怒るつもりはない。ただ、これから外されたりしないか心配」ということだったのだが、私としては、ちょっとまずかったかな…私も怖かったから転送したんだけどな…とは思った。

それが、始まりだった。
転校後の一連の流れを経て、私は、思えばちょっとすかしていた。1学期目は、4と5が混ざっていて、まずまずの成績だったし、表現が難しいのだけれど、switchが入っていない状態だった。どうせ…という、本気でもまっすぐでもない姿勢だった。そうなるには、もちろん理由があったのだけど。

その後、テストの計画だったか、夏休みの計画だったかで、
「そんなの、みんな適当にやってんじゃん、ちゃんとやってる人なんていないよ」だったか、「まだ誰も始めてないよ」だったか、まわりと話していたところ、
「そんなことはありませんよ」と言いながら、もりかんの習慣である日報が配られた。そこにはきちんと動いているクラスメイトが紹介されていた。そうなんだ、そういうもんなんだ、と私は素直に思った。

みんなの前でほめる

良いことをしたとき…というよりは、良いものを作ったとき、すごくほめてもらった記憶がある。ほめる、という意図ではなかったのだろうけど、いい例として紹介されることが何度もあった。

成績

そんなわけで、ちゃんとせえ、というmessageを何となく受け取った私は、その後、いつも通り親が来ない面談をひとりで受けた。それも、用意された日程の前日に、ひとりで受けた。
そのとき見せられた私の2学期の成績は、"体育以外オール5"だった。以後、中学ではほぼkeepしたように思う。いつの間にそんな成績になったのか…私は特別なことをしたわけではないはずなのだけど…?
「この成績は、クラスで何番目(忘れた)に良いです」
そう言われた。これは、自信になった。

その後、給食を食べながら、まわりに話していたら、そのうちの誰かがもりかんに確認をしていた。まずいこと言ったかな、と思ったのだが、何の問題もなく、もりかんは肯定していた。

ちなみに、家庭訪問は親父が受けた。
家庭で出るお茶や飲み物をもらっていると、じゃぼじゃぼになってしまうのでもらわない、と言っていたが、親父が渡したのは水のペットボトルで、
「これは、頂きます。笑」
と受け取ってもらえた、というのは、親父の誇りの一つである。笑
その後、親が出したものはもらわないけど、ある生徒が入れたお茶は飲んだ、という話を聞いた。

テストの受け方

さらに、国語のテストのlisteningで(樹形図で整理するのだ)、私が欄外にメモを取っていたのを、みんなの前で言ってくれたこともあった。これは、もりかんが、メモを書いてもいい、と前に言っていたのを覚えていて、だけどそれ以来触れないな…と思っているうちに何度もテストがあり、私はたまたま思い出してこのとき書いてみたのだった。
以来、聞き取るときは、欄外に小さく書いて、そのあと正しく書きましょう、という解き方方針に変更された。これも、自分が何か意味のあることをした、とすーっと認めるしかない状況だった。

お礼状

社会科見学後にお礼を書く、ということがあった。
字のきれいさに力を入れてみて(なんとなく)、内容はぼやっと書いたものを見せたところ、具体的に、と言われた。そうして具体的な内容を入れて書いてみたら、学年全体にお礼状についてもりかんが放送して話すときに(なんで放送になったのかはわからない)、私の例を使ってくれた。
「わかりやすかったから」とのことだ。

説得力

国語の先生なので、論文を書く機会が多くあった。
そこでも、すごく褒めてもらった。もちろんいい例は私以外にも何人も使われるのだが、とても誇らしかったし、考えるのが楽しかった。
思い出すのは、"泳ぐならプールか海か?"というもの。何を書いたかは思い出せないのだが、私が書いたものを紹介したあと、
「繰り返し言うぞ。泳ぐなら、だからな」
だったか、私の書いたものの良さを強調してくれたように思い、嬉しかった。もちろん、その後、論理の展開がいまいちのときには、「前のやつのほうがよかったな」と、笑顔で言われたりもした。笑

こういう小さいことが、何度もあった。
この人は決して私をひいきしていたわけではないのだが、英語で言う"I see you"という状態になった。誰かが私を見て、評価してくれている、ということ。それも、デレデレで甘く、何をやってもいい~というのではなく、正しくしなければいけない緊張感はありながら。
そうして私は、私が普通に意識しないでやっていることが、ほめられることなんだな、とぼんやりと思った。

これを書きながら、私が当時から得意で好きで伸ばしてもらったことは、その後のDebateなんかに活きているなあ、と気づく。
もりかんは先生としても評価されている人で、innovativeというか、国語の内容/skillsとしてもすごくためになり、organizedされているものを提供してくれた。

才能を見つけて伸ばす

本人にも伝えたのだが、才能を見つけて伸ばしてもらったという感覚がある。なんでこんなに私の才能をいくつも見つけてくれたんだろう、ちょっと嫉妬されるかも、と思うほどに。もりかんは私だけでなく、いろんな子の才能をいくつも見つけたのかもしれない。

アイディアを出せる

まったく思い出せないのだが、全校/学年が体育館に集まって、キャッチコピーを考えることがあった。私はそのとき眠いのを堪えてうとうとしていて、字もひん曲がっていたのだけど、それでももりかんは私の物を見に来てくれて、みんなの前で紹介してくれた。つまり、その前から評価していて、目をつけてくれていた、ということだ。

この経験もあって、私はコピーライターもできるんだろうな、と思っている(蝶々さんや石田衣良がやっていたということもあって)。時々、仕事にしようかな、とよぎる。
私が名前をつけたものは、だいたい定着していて、それだけの能力が私にはあると思っている。その自己評価になったのは、この経験からである。

絵も描ける

「美術で描いているものをみんなちょっと見せてみろ」と言われたことがあって、描いた自分の手首を見せたら、ちょっと上手いな、と言われた。私としては、見えたままに描いただけである。
ちなみに私は小学生のときに、区に飾られる賞を取っているのだが、マンガ好きでも、少女漫画のような絵を描く子にもならなかった(そういうfemininityはなかったので)から、絵が得意なのは昔のこと…と思っていた。けれど、まあ描いて描けないことはない。

今でもvisualsを作るのは好きだし、コンサルの仕事でも一定の評価を得ていた。

その後、あれは学校祭通信だったのか、なんだったのかやはり思い出せないのだが、なぜか書いて描いていたことがあった。2人でやっていたのだが、
「2人とも絵が描けるんだから」
と、もりかんが言ってくれて、徹夜に近いものを、楽しみながらした覚えがある。
昔から私はこうして書いたり描いたりする創作が好きだった。13歳の魂、100まで、かねえ。笑

書ける

その後、親友が生徒会に立候補し、私が演説をすることになった。授業ではないので、成績のpressureがない作文を書き、添削してもらうのは新鮮な体験だった。
「いい文章なのでたくさん赤が入っています」と言いながら、真っ赤に直された。もちろん親友は当選した。

喋れる

Innovativeな国語には、スピーチもあった。視線をちゃんと全員に配ること、暗記すること、そういうことも、もりかんはきちんと教えてくれた。
私はこれが大好きで、当時から「楽しませてやる~」というかんじだった。今にもつながるものがある。

以後、これがLifeworkだ!と気づいたのは、やはりスピーチ・プレゼンが大好きだということだった。私がSpeech majorだったことは後日伝えてある。

活躍の場を

私は当時、図書局に入っていた。本の虫だった…という話は、別にて。
そして、親友が生徒会に入ったものの、私には活躍できる場がないから…ということで、当時の図書局長に、次はHazeに、と言ってくれたそうだ。

と、図書局長の先輩から伝えられたものの、その人とその仲良しな人々は、私ではなくそれぞれに投票し、私は引き続き活躍の場を得られなかった。
つまり嫉妬にあった。そうして、図書局には行かなくなった。顧問も良くはなかった。

その後、私は1番の進学校に行くことになった。1年後、図書局の後輩で、当時は賢いとは思っていなかった子(事実)が高校に入ってきた。
つるんでいるやつらだと思っていたけれど…違ったんかな、と思った。

小ネタ

今回は小見出しでまとめているので、ここでも括ることにする。

ひまわり

もりかんを語る上で外せないのが、学級だより「ひまわり」である。
毎日これを配られ、もりかんが読むのをみんなで聞くという時間があって、みんなが楽しみにしていたと思う。
タイトルはいつも手書きだった。なんでひまわりなのかは、最終回で明かされた。

この内容はさまざまで、私たちが書いたものを紹介するコーナーもあった。特に印象に残っているのが、「コレがよかった!〇月編」というもので、その月が終わる前に、1人20文字以内…とかで、全員分が裏表1枚に載った。

私はjournalingの習慣が中1からあり(これはもりかんとは関係ないのだが、読書とは関係がある)、今でも毎日、見た夢や、感じたこと、良いと思ったquotesなどを書いている。そして、毎月、振り返りを書いている。最終日になると、次のページを1カ月の振り返りにあてて、その後時間があるときに振り返って、何が起きて、何を書いていて、どんなことを考えていたか…ということをまとめている。
というわけで、これは私の習慣になっている。

読書

もりかんは国語の先生で、本屋のない街には住みたくないという、とんでもなく読書をする人だった。
ということで、おすすめの作家を教えてもらったことも何度もある。新しいものが好きで本屋にめっちゃ行く、と言ったところ、それはとても良い性質だ、とかなんとか言われて嬉しかった。私はといえば、中学生ながら自己啓発にはまっている、変わった子供だった。。。

ちなみにもりかんには著書があり、クラス全員にくれた。サインをもらった本は、今でもとってあり、10数年後、図書館の無料workshopで図書館のようにラミネートのカバーをかけた。私は本は借りる主義なので、持っている数冊のうちのひとつである。

合唱コンクール

中学には合唱コンクールがあった。私は3年間伴奏者だったため、一度も歌っていないのだが…この中1のクラスでは、学年1位になった。それは私の親友がとても歌がうまいからというのが、多分にあるのだけど。笑
ここで思い出すのは、もりかんのwifeが、中学の同級生で伴奏者だったというepisodeである。当時伴奏者だった私には、そのように思ってくれる人はいなかったのだけど…笑、自分がやっていることに注目してくれるというか、特別なものとして見てくれている、価値を見てくれているという感覚はあった。

中2以降のこと

All good things come to an end.
下で書いたとおり、中2-3のクラスは、微妙だった。

選択国語

中2になると、選択科目があった。もりかんが教えている選択国語を希望したのだが(元3組へのメッセージと本人も言っていたし)、希望者殺到で取れなかった。

代わりに、私には必要のないレベルの低い(復習の)英語を取ることになった。

受験

選択国語を取っていた親友が中身を教えてくれていた。それは、受験では音を立ててページをめくれ、というものであった。笑
受験前に2人でアドバイスを聞きに行ったところ、
「前日になって何をしても変わらないと思わずに、最後まできちんと見ておくと、意外とそういうところが出るのだ」と言われた。2人とも受かった。

高校

進学校に行ったものの、自信をなくしていた私は、学校祭のポスターを中学に届けに行き、もりかんと話した。
愚痴を言ったところ、なんとなく突き放された感覚があった。「卒業生に時間を取られると、本当に在校生に時間を割けなくなるから」とは、卒業したときにも言われていた。

この後日談が、数年後にあって、
「身に覚えがあると思うけど、相手がああしてくれない、と言っているうちはだめなんだ」
と言われた。そう言われるまで、私はこの意味がわからなかった。今なら、依存だな…とわかるけれど。

ブログ

アメリカに行く前に、ブログを始めた。
本を書いた売り上げで車が買えたもりかんは、「退職するまでは、あえて本は書かないことにしている」そうで、ブログについて話したところ、
「10年で目が出ればいいや、くらいのつもりで」
「対象を考えて、短いものや長いものを書く」と言われた。
そのブログは帰国後に閉じてしまったけれど(書くものがなくなったので)、こうして今も書いている。

子供は期待の通りになる

私の信念のひとつなので、ほかの記事に詳しく書いているのだけれど、自分の経験や見てきたことから、子供は、いや人は、まわりの期待にこたえてしまう、と思っている。まわりが期待して、できると信じてくれれば、できるようになるし、評価してくれないな、と思えば、伸びない。
そんな信念を持つようになった理由のひとつは、このもりかんとの出会いである。正してもらって、育んでもらわなかったら、私は埋もれていたかもしれないし、もっと自信がなく、高校にも落ちて、もっと沈んでいて、ぱっとしなかったかもしれないと思う。

幸いなのは、誰しも、お世話になった先生というか、感謝していて、影響を与えてくれた人、というのが存在するような気がする(そういう話をよく聞く)。そう思うと、給料が低くて良いtalentが集まらないなんて言われる教育の世界も、捨てたもんじゃないような気がする。やはり先生になりたいと思う人には、子供の成長や教育に対する情熱とか、思いがあるのだろう。
そう考えてみると、先生というのも、やりがいのある、ついやる気になってしまう仕事なのだろう。もちろん逆に、あの先生が悪かったよね…という経験も、あるのだけど。
もりかんとは節目節目で会い続けているので、数年後聞いたところ、
「いろんな子がいる中学がおもしろい」と言っていた。

そして、転校してどん底に落ちた私が、転校して良かったこともあったよね…と初めて思えたのは、中1のこのクラスである。もりかんに道を正してもらい、才能を見つけて伸ばしてもらったことと、当時同級生だった親友・友達と楽しく過ごし、今もつながっていることである。

人のために力を使う

そうして、卒業後何年も経ってから、親友と一緒に聞いたことは、
「〇高や〇高に行くような人間は(賢い私たちは)、人のために自分の力を使わなければだめだ」ということと、「普通の人は普通だから」ということだった。笑

何度目になるのか、おすすめの作家を聞いてみたところ、この人なら得るものがあるかもしれない、と胸ポケットからメモ帳を出して教えてくれた。
この作者の本を読んでみると、「一人の力ではない、まわりのおかげ、感謝」と書いてあった。

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