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「庭を借りる文化」から浮かび上がるドイツ人の幸せのかたち

前回投稿したドイツの「庭を借りる文化」の続き。前回は、ドイツのクラインガルテンという庭を借りる文化がどういう制度なのか概要を整理した(*最近までドイツに住んでいました)。

↑ 前回の投稿はnoteの「今日の注目記事」に選んで頂きました。多くの人に読んでもらえて、感謝。


さて、今回は「クラインガルテンから浮かび上がるドイツ人の幸せのかたち」について考察してみる。

かなり抽象的な内容になってしまうけど、そのぶん考え方としては普遍的で自分たちの生活に応用しやすいレベル感になるようトライしてみる。

まずは、前回投稿したクラインガルテンのポイントをざっくりと振り返ってみると、こんな感じ。

クラインガルテンの特徴

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①ドイツでは全土に広がっている文化。自分の大きな庭を持っていない家庭が、庭を借りる。

②一区画は10m×20mとか20m×20mくらい。芝生・木・花・野菜や果物の木などが植えられている。

③例えば引退したお年寄りが昼間に時間を過ごしたり、小さな子どものいる家族が週末に訪れて自然に囲まれながらのんびりしたり。思い思いにゆっくりとした豊かな時間を過ごす。

④のんびりする、とはいっても、植物を育てたり立派な生産活動を行っている。

⑤大きな都市にはそういった区画が集まったエリアがアチコチにあって、合計すると一つの大都市あたりクラインガルテンが甲子園球場換算で数十個分とかの巨大な面積を占めている。

⑥人々が庭を手入れすることによって、都市としても自然あふれるバランスのよい状態を維持することができる

⑦クラインガルテンのエリアは、城壁都市のようにある程度クローズされた空間。中は信頼できる人たちのコミュニティーが築かれていて、地域交流の場となっている。

⑧クラインガルテンは何十年にも亘って借りる人が多く、賃借料は激安。明らかにビジネスではなく、社会にとって重要な福祉と位置付けられている。

こんな感じ。

さて、クラインガルテンの制度や文化を切り口にしてドイツ人を見てみると、「ドイツ人の幸福観」がわかり易く浮かび上がってくると思う。

まずは、幸せな生活とは?についての共通認識から

まず、ドイツ人は「自分たちが幸せに生きるには何が重要か」という点について、国民である程度の共通認識を持っていると思う。

大事にしていることの例は、

家族・友人・地域の人たちとの豊かな人間関係」

心地よい自然に囲まれた日常生活」

「大事な人たちと今この瞬間を楽しむ時間」

自分も社会の一員だと実感できること」

自分も社会の役に立っていると思えること」

生産的な活動をしていると感じられること」

など。

こういった「国民が重要と考える共通な要素」は、いずれもクラインガルテンで過ごす時間に詰まっている。実際、天気のいい日にクラインガルテンを歩いていると、「大事なものは全てここにある」と満たされた気持ちになる。

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あらゆる人が幸せを享受できるべき、という信念

そしてドイツでは、こういった基本的で重要な幸せの要素は、「あらゆる人たちが平等に享受できる状態であるべき」と考える基本的な思想が強い。

クラインガルテンの一区画が、年間わずか4~5万円程度で借りられるようになっている理由は、お金がない人たちでも安価に質の高い時間を過ごせるように配慮されているから。

というのも、多くのドイツ人は自国を「お金で幸せを買う国にしたくない」と考えていて、お金があろうがなかろうが、みんな等しく幸せな日常を過ごせるようなコミュニティーづくりを目指している。

社会保障が充実しているドイツなので、たとえ経済的に貧しい人でも、これくらいの金額を負担することは難しくないはず。それによって、クラインガルテンのようなベーシックな幸福要素が満たされた場所で、幸せで満ち足りた日常を過ごすことが可能になっている。

つまり、このクラインガルテンの安価な金額設定は、単なる高い安いの経済性の問題だけではなく、「自分たちが望む、あるべき社会の表れ」と位置付けていると思う。

↓ 他にも、たとえば湖。この湖の周囲の土地は、むかし貴族だったドイツ人ファミリーが所有しているらしい。でも「こういった素晴らしい自然は公共の財産としてみんなが楽しめるように」という考えに基づいて、多くのエリアではあらゆる人たちがタダ同然で遊ぶことができる。

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話をクラインガルテンに戻すと、もし国土の開発を不動産会社とかに任せていたら、クラインガルテンの文化は商業的な合理性によって確実に失われていたはず。でも現実にドイツでは、現在も生きた形で大量に残っていて、それによって富める人も貧しい人も心が満たされた生活を送っている。都市も健全な形を保っている。

これが実現できている理由は何か?

根気づよい努力

おそらく、ドイツ人が自分たちで「人が幸せに生きるには何が重要か」についてきっちり考えて、それを言語化して、社会全体でしっかり話し合っていることが大きな役割を果たしていると思う。

そうやって、前提としてみんなが大事にしたいものについての考え方が明確になっていて、国・地方自治体・共同体といった公共組織がそれを実現するようにずっと取り組んできた、ということに他ならないと思う。

実際、ドイツ人たちと話をしていると、くどいくらいに自分の好きな時間や、大事にしていることが話題に挙がり、個人の価値観が明確にされる。そういった話題の多くは、単なる新しい情報やノウハウといったものではなく、家族や友だちとの楽しい時間、地域の人たちとの交わり、社会活動といった、成熟した満たされた時間や経験についての話。

更に、そうやって話をすることでお互いにインスピレーションを得たりしながら、良いものは自分の生活にも適用していく。こうやってみんなで一緒に生活の質と満足度を高めていく。

ということで、本当に良い成熟した生活が何かということについて、市民一人一人が大切にしたいことを言葉を尽くして会話して、社会で共有する。その根気づよい努力を営々と続けてきたことによって、国民が大切にしたいと思っていることを現代まで脈々と受け継いできた「幸せ文化」だと思う

見方を変えると、「みんなが黙っていても、どこかの誰かがいい感じの社会を見繕って持ってきてくれる訳ではない」ということを彼ら/彼女らは知っている、とも言える。

もし、そういった幸せの前提認識が国民で共有されていなければ、一体どうなるか。

「お金で幸せを買う社会」

その場合、国・地方自治体・共同体などの公共組織は、突き詰めると経済活動を活発にすることだけに血道を上げることになってしまう。

なぜなら、国・地方自治体など公共組織からすると、
「経済はうまく回るように努力する。でもあとは国民の各個人が、その経済活動で得たお金を使って自分で自分なりの幸せを買ってください。だって幸せは各個人の胸の中にあるもので、私たちはみなさんにとって何が幸せかは知りません。だから社会の中で共通的な価値のある「お金」以外に、何を公共組織が準備して分配すれば良いか分かりません」となるから。

でも、この方向性はとても危うい。

そういった公共組織が、みんなにとって共通的な幸せのかたちを実現するために努力をしない限りは、、、クラインガルテンのような幸せの基本要素が詰まった存在は、経済合理性によって瞬殺されて、次の瞬間には住宅地や商業施設に生まれ変わる。

そうやって都市は住宅と商業施設だけで埋め尽くされていき、人々は「消費活動の先に幸せが待っているのだろう」と、なんとなくいつか来るはずの幸せな日を待ち侘びながら生活することになるのかも知れない。

また逆に、経済的に魅力的でない地方はどんどん打ち棄てられていき、地方は廃れてしまって住む理由がなくなる。他方で、経済活動が活発な大都市にはどんどん人が集まり、それはそれで過密の不自然な都市が形成される。

そうやっていびつな社会が形造られていくと、その結果として「もうこんな不自然でいびつな社会には、お金を出してたとしても買えるような基本的な幸せの要素なんて残ってないよ」となるんじゃないか。

やっぱり、公共組織が健全な社会づくりの音頭をとることは、よい社会を築く上で非常に大きな役割を果たすと思う。

では、どうするか

となると、みんな一人一人が自分の幸せのかたちを根気強く社会に発信し続けることが、多くの人が幸せを感じられる社会に近づく第一歩になるのでは。

そうやって「幸せのかたちを見える化」することで、社会の向かうべき方向が具体的にみえてきて、コンセンサスがまとまってきて、それを実現する力が生まれるのではないか。

みんなの努力によって、より幸福な要素に満ちた社会や街に近づいていく、そのための第一歩が何かといえば・・・

例えば、あなたがnoteに書いて発信する「あなたの満ち足りた時間」や「好きなこと」。そしてその記事から浮かび上がってくる「あなたの幸せのかたち」かも知れません。

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*今回書いた話は、ずっと前に書いたビアガーデン文化と趣旨が似ているので、興味ある人はこちらもご参照ください。

by 世界の人に聞いてみた

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