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自分の成り立ちとか

「にゃーさんってなんでそんな人(頼られ過ぎて疲れる程のお人好し)になったの?」みたいな話を振られたので、ちょいちょい書いてみようかな。

うーんまず、
最初の時点で、父と兄は身体障害者でした。
網膜芽細胞腫。
父は時代柄、身体障害(特に目なんて分野)は発展していなかったため、今でも障害認定はされていません。
ただ、弱視近視網膜芽細胞腫と3コンボかましてる長男は片目がないため、昭和の偏見か言葉のあやか、長男を下げる物言いをした実の親に「俺のこともそう思ってたのか!」と怒った話は聞いたかな。
同じだもんね片目ないから。

で、私を産んだことで、元々腎臓がそんなに良くなかった母が身体障害者になります。慢性腎不全の嚢胞腎です。
産んだことがスイッチにはなったかもしれないけど、断じてあんたを産んだからではないと母が言いますので、私としては「でも…」より「じゃあそういうことで、産んでよかった人間になります」という方向に向きました。
昔はミラクルポジティブだったんで()
まあ、オープンキャンパスで嚢胞腎のスキャン画像があったので、ショックは凄かったけどね。

さて私が生まれて1年で既に周りに障害者が3人。
兄は片目がないですから、無い方の目で見る範囲のものを探すことは苦手です。
箸の使い方とかは本人の努力しかないとしても、醤油を取るくらいは子どもの私でも出来ることです。
障害者が周りにいるのは普通でした。
なんなら気付かないまであった。今思い返すと『発達1人と聴覚が2人友人に居たくない??』って思います。おかしいとすら思わなかった。

当時の私はブラコンでした。
類を見ないほどブラコンでした。なんなら今でも血が繋がっていなければ長男愛してるが。(重症)
長男周りの女性は目が節穴なのか?大丈夫か?あんないい男早々居ないぞ?兄妹結婚したいですけど???

一旦置いときましょう。

ブラコンとはいえ、頭の足りないガキだった私は、「兄は目が無くても素敵だろう!」という自慢をしたかったわけですが、兄からは「私のお兄ちゃん目が無いの!変でしょ!」に聞こえたそうです。無念。こんなに愛しているのに傷付けただと。投身自殺も辞さない。(重症)

しかし長男は天使オブ天使だったので、そんなことで距離を取ったりせず、むしろ普通以上に優しくしてくれました。天使。
なので、兄が高校受験で差別を受けたと聞いた時には、世界は理不尽で溢れていると知りました。

私の時もですが、母は嚢胞腎ですから、傍目からは元気です。「なんでPTA役員やらないの?」という不満を漏らす他の方を見てきました。
母は「見えない障害は理解されないのよ。気にしなくていいのよ(サクッ)」でした。でも、割り切ってるとはいえ、傷つかないわけではなかっただろうし。

兄の時は、「受験はしてもいい(受験料は取る)が、視覚障害者を迎え入れる体制はない(要は受験料だけ取るが不合格は確定)」と言われて、両親がガチギレしてたのを覚えています。
優しい兄が俯く姿も。自分のせいで迷惑を掛けてる……みたいな表情も。

それと並行して、院内学級に行きましょうと言う話が出ていました。まあ数日ですけどね。
特に偏見もなかった私は行く行くと乗り気で、ほかのクラスメイトはヤダと。何故か分からなかった私、今思うと頭が足りていない。
どのみち定数が行かねばならないため、行きました。

あちらの子もギクシャク、こちらも(私以外が)ギクシャク。空気を読まない私。
というか分からないんですよね、病気の人も障害者も家に居ますから、どう接したらいいのか分からないとか困ってない。
今も生きてるのかは分からないですが、同じ学校に通いながら、病院と校舎という全く違う場所にいる同級生と仲良くなりました。
その時の子が、
「にゃーちゃんは、私たちを偏見の目で見ないね。」って言ってきました。
当時の私は小学生なので、なんの事か分からんかった。馬鹿でした。
思い出せば、治るか分からない病気とか、治らない身体障害だったりとか、治療法が見付かっていないいずれ死ぬ病気の子も居ました。
「にゃーちゃんと話してると、(いつ死ぬともしれないのに、)『いま』を楽しもうと思えて、嬉しかったよ」と言われたのを覚えています。

話が飛びまして中学になります。
職場体験に行きましょう!という話になりました。
既に『社会福祉士になる』と決めていたので、福祉に役立ちそうな或いは関係がある場所はと一覧を見たら、当時の名前で養護学校(現、特別支援学校)がありました。
そうか、障害と一括りに言っても、生まれてから死ぬまで障害の人は居ます。
児童分野、学生分野、思春期分野、青年期分野、高齢者分野、全てに障害者はいる。
なんたって兄貴がそうですからね。

中学はそういう、発達障害や知的障害の人だけで構成されたクラスがありました。
部活掛け持ち上等だった私はボランティア部に入っていて、そのクラスの子もボランティア部だったので、遊びに行くとか増えました。
喋れない(吃音とかじゃなくて、なんか喋れないらしい)知的障害の子で、まあ見るからに障害者でしたが、だからといって、なんだ?って感じなので、一緒にボランティア活動してました。

話戻します。
ということで、養護学校へ行きました。
そこで教わったのはひとつだけ。
「~しないで」ではなく「~してほしい」と、伝えること。
これ早めに聞いといて良かったですよ、高いとこで楽しく遊んでる子がいたから、危ねぇ~~~ってなったんですけど
「高いとこ登らないで(禁止)」だと、小学生男子がよくやるカッコイイ降り方からのキメとかやりかねなかった。(障害的にキメはしないけど、降り方が危なかったかもとは思う。結構やらかすのでw)

そこの先生たちからは、「にゃーさんは若いから体力あるね。羨ましい(青ざめ……)」と、「ひとりひとりをよく見てる。自由を妨げない言葉を使うようにしてるね」(なぜ分かった……すげえ……)と言われました。

私から言えば、障害があるだけなんですよ。
周りが何言ってるとかどうでもいいわ。
その子は障害があるだけなんですよ。
障害を理由に束縛されたい?私はされたくない。
障害があっても自由に生きて欲しい。
家族に障害者が居たからかもしれませんね。

さて時期がいつだったか忘れましたが、私が小学生か中学生の頃に叔父が精神障害になりました。
外面も取り繕えないくらい手負いの獣の親戚。
率直に心配しました。

いや、だってさ?
両親に、兄姉、兄嫁、自分の嫁、子ども3人。
誰からも「それはつらかったね」って言われてる叔父を、見ていないんですよ。
なんなら腫れ物扱い、これから先どうするか。
子ども心ながら、『それちゃうくない??』って思いました。
当時の私には教えて貰えなかったですが、勤めた会社が理由で病んだそうです。それでも昭和の感覚なのかなうちの感覚なのかな、大黒柱が努力するものなんだみたいな思考で無理をして、壊れた。
だというのに、家族は嫁も子どもも父親を軽蔑している。あんまりでは???

親戚内だけでもこれだけ世界が狭い。
ちょうど加速度的にインターネットが普及してきたので、私はネットの海へ乗り出してみました。
まあ出てくる出てくる問題のオンパレード。
一時期、一日中10人とメールをするとかで、仲を保つだけの子も居れば、悩んでる子も居て、大体3:7でしたかね。
1分もすれば返事が来るから、よく10人も捌いたよな。

友達から見放されて泣いてる子も居ました。
虐待されてる子も居ました。
「家に入れない!」で私が裏から糸を引いて帰宅してもらったこともあります。理由もなく子どもを締め出すんじゃない親。
夜の2時に電話をかけてくる子もいました。自分のせいで親が病んじゃったと自分を責めて、2年くらいかけて元気になってくれましたが新潟中越地震から音沙汰無しになりました。震源地に近かったので。

高校に入ってからはバイトよりボランティアに勤しみました。
精神障害の子が自由に駆け回る姿も、どっちが沢山食べれるか競走しようと言われるのも(負けました)、この飴おいしいからあげると言われるのも新鮮だった。親御様も「他人にここまで素を出してるの見るのは久しぶりです……」と。それはお役に立てて何よりです。

他にも施設に行ったりしました。毎日パートナー変わるんですけど、クソ真面目に親御さんに申し送りしちゃってるパートナーの時は苦労しました。
「悪いことは悪いって言わないと」とか言ってた気がしますが、それ悪いとか以前の話で、子どもは残酷だって話なんよ。漫画で見ないか?子どもが虫を殺したり引きちぎって楽しんでる描写。
それを聞かされる親御さんの気持ちは?
私たちがやるのは善し悪しとか命の尊さがどうこうではないんですよ。ここ学校ですらねえし。
そりゃ「他の子と揉めて大事に」は報告しないといけないし、教えないといけませんが、第一にしないといけないのは、私たちが目を離したという事実への反省です。その子を責める報告をすることではない。

あとはお祭りの同伴もしたかな。
相手が背の高い成人だったので、追い掛けるだけでもギリギリというか間に合わなかったですが、そこら辺中に社員さんは散らばってますから聞いて見つけ出して、見つけたそこでその人は祭りを盛大に楽しんでおりました。
そうだね。重度の知的障害があると施設から出れないもんね。私たちは見張りではなくて、困らないように見守るのが役割です。楽しかったなら何よりです。

さて、話が戻る上にすっ飛びますが、高校はなんと三兄妹全員同じとこに行きました。
学部はバラバラだけど。
私も当初は「国公立か福祉系」と思っていましたが、残念ながら頭が良い方ではなかったのと、当時の恩師が「良い学校の底辺より、そうじゃない学校の上位にいる方がいいと思う(オブラート)」
そっすね!!私が行きたい福祉の大学、下から二番目だからアホ校なんだよな言えないよな!!いいよ!!

兎にも角にも、オープンスクール行ってみなきゃ分からんよねと思って行ったら
この曲を流したのです。

私が入りたかった福祉の学部は、メインの学部ではありません。なんなら情報とか特進の方がメインで、たぶんオマケのように付いてました。
それでも、この学校はこれを歌うのです。
「節目節目、必ず歌います。」と聞きました。

オープンスクールで福祉のとこいって、まーぁ手荒だけど現場をよく知ってる恩師の話を聞き。
3回くらいオープンスクール手伝ったけど(←)、なかなか出汁にされましたね!手足に2kgの重しつけて、身動きしづらくなるもの身につけて、車椅子に座って、恩師が言ったの「はいにゃーさん、立ちましょうね」無理だが。
しかし手を貸さない恩師。いや、超無理だが??
見学に来ていた子もさすがに分かるほど、れっきとした、無理。これが現場の実情。
というと恩師が期待してるのはー……

「はいにゃーさん、気持ちはどうですか?
あ、やっぱりそれー。はいー。語彙にしろって意味で私を拘束放置したんですねわっかるー。
私「一人じゃ立てません。」
恩師「そうですね。でも悲しいかな現場はそうです。どうしましょうか?」
私「今の私は車椅子にもたれています。後ろに重力が掛かっています。手足が動いても前に倒れる危険があります。」
恩師「そうですね、大変危ないですね。では僕は前に突っ立ってればよろしいですか?」
私「それは転倒防止に貢献しません。直立になった時にその場でバランスを崩せば、その場か後ろに倒れて、車椅子で怪我をします。」
恩師「大正解ですねー。さすがにゃーさん僕のテストを簡単に解くだけありますね。ここから先どうしたらいいかは専門知識なので入学してからになりますが(チラリ)」
私「ヒトリジャタテナイナータスケテホシイナー。」
恩師「(ニッコリ)起こして外すまでは面倒見ましょうかね。よいこらせ」←スローモーションで一応技法は見せている。

そんな恩師の話が終わり、オープンスクールが終わる前に体育館に行く中学生を見送り、教室から必ずこの歌を聴きました。
この曲を聴いたから、この学校にしたいと思ったんです。
『命の尊さ』を、絶えず訴えてくる学校。
同級生は聞き飽きたという子も居ましたが、私はオープンスクールの手伝いを断らない程度には聴きたいと思っていましたよ。

理不尽な理由で不合格にされる兄。
やっと「ありがとう」と言えた直後の地震。
問題はどこにでも散らばっていて、解決した矢先にその命が掻き消えたこともある。

地震といえば、東日本大震災とか熊本地震の時に友人がかなり取り乱してしまって、落ち着いてもらうの大変でしたね。
連絡が取れない親友に、来る日も来る日も泣いて苦しんで私に泣きついてくる。生きてるのかな死んじゃったのかな怖いよと毎日泣かれました。
生きてましたので、2週間後くらいには連絡取れたみたいでしたが
2週間不眠だったんですよね。その子。寝かし付けるの大変だったもん。
同じく、震災にあって、生きてはいたんだけど電気水道その他何も無いから蝋燭だけの生活で、「夜が怖いの。なのに寝れないの」という子が居たので、誰かが起きてくるか、日が昇るまで話し相手をしていたこともあります。
「ごめんね、ただでさえ私病んでるのに、朝まで付き合わせて」を何回も聞いては、「私夜型だから大丈夫だよ」で何とか2人で乗り切ったり。

友人からはよく『にゃーさんの人生って、(いじめてくるとか)クズの祭典みたいなもんなのに、よく性格ひんまがらなかったよね』と言われるのですが
それを覆すような出来事であったり、剣呑な空気をぶっ壊してる自覚がない天然さんだったり、たまに見られた私の精神的な異常反応を軽視しない友人であったり、いいところとの釣り合いは取れていたんですよ。
あと本当に同世代のいじめってクオリティ低いから傷付けない。貶せてないんだけど??

傷付く暇もなかったのです。
小学生以下の年齢から既に「福祉の道に行く」と決めて進んできたのです。
なら、例えば傷付いたとしても、それは他の誰かの傷に寄り添うため。泣いている暇などありません。
家の階段に、赤いテープを貼る母を見て、「なんで赤いテープを貼るの?」「長男が滑って転げ落ちないためよ。この階段、境目が見づらいでしょう」「私でもたまに見えん。これがユニバーサルデザイン」「なにそれ?」「障害の有無に関係なく、分かりやすいって良い事だねってことよ」「そりゃあ違いないね。」と話したことも。

今でさえ私を悩ませて胃痛を引き起こしている張本人の父ですが、「父さん(祖父)これだけになってしもうた。」と悲しげに呟いたのが、私しかいない時に、たった1回だけだったことも。

大学でボロボロになったこともあるし
社会人になるにあたって「最初から福祉の道は、いやだ。」と思ったことも。

卒業する後輩に、聴覚障害の子が居たのですが
花束持って会いに行ったら、マシンガン感謝をされたりとか。
今所属してるNPOでは『無駄』と言われるのですが、大学生の私は後輩がどう講義に混ざれないのかを見てきました。
必要なことだけを端的に書きなさい、これがNPOの方針です。
でも後輩ちゃんが感謝を10分近く述べ続けたのは、『先輩が私と仲良くしようって、講義前に紙に書いたり、パソコンに打ち込んでくれたのが凄く嬉しくて!』
『みんなが何かに笑ってるのに、私聞こえないから分からなくて、なんで笑ってるの?って思ってたら、先輩が全部書いてくれたから、講義の後に友達と話しが盛り上がって!』
こんなことです。
ノートテイクという点から見れば、無駄です。必要ないでしょう。だからNPOでは注意されます、余計なことに時間を割くなと。

けど、これは聴覚障害の人の人生です。
聞こえない人生の音なんです。
友達と「あの先生のジョークさぁ~www」と言う話が、分からないか分かるかの決定打です。
故人に無駄を愛せよみたいな言ってる人いましたよね。

寄り添うこころは
必要な『無駄』ではないかしら。

卒論も、留年したので実質2年かけましたが
1年目は不満だらけでした。
問題提起。出来てる。
理論構築。出来てる。
将来の展望。期待値は低いが無くはない。
でも何かが足りない。

卒論のタイトルは『双方向性』を謳っていました。
なのに、問題提起、理論構築、展望って、一方的なんですよね。
そう、押し付けがましいのです。だから気に入らなかった。

ベルリンの壁が壊れるように。
障害者が抱える障壁を取り除いていくためには、『障害者自身の展望』が必要だった。
33年ひた走って、まだまだ見識も甘く、権謀術数にも全く長けてない小娘ですけれど。

いろんなひとの涙を見てきた。
泣かないように我慢する顔を見てきた。
それが私には
どうにもならないものと切り捨てるものであると断じられなかった。
他の人は無理だよ諦めなよと言います。
卒論の時も恩師に言われました。「これは本当に、叶うと思いますか?机上の空論ではなく。」と。

私のお返事は、
『叶えたいと願うことが第1歩であり、叶える力と仲間を集めていくのが第2歩であり、例え私が死んでも土台として残るようにするのが第3歩であり、それを通過した先に、この論文は机上の空論から現実のものへ変わる時が来るのです。』

痛み?考察しましょう。
悲しみ?発生源を探しましょう。
苦しみ?記憶しましょう。
つらさ?どんな言葉が欲しいか考えましょう。

そうすれば、誰かの涙を拭える。
しんどさに寄り添って、喘ぐ気持ちに言葉を手向けることができる。
たくさんたくさん、見てきました。
たくさんたくさん、聞いてきました。
どうして欲しいのか、言えずにいるような態度も、たくさんたくさん見てきました。
私が出来たのはたったの少しだったけど。
それでも、何人かは立ち上がる力を得たのなら。

私のこの愚かなまでのお人好しも
苦しんだり悲しんだり傷ついたり泣いたりしてきたことも
誰かの笑顔に繋げていくので。
そういう馬鹿なので。

ひとは、笑ってくれるだけで愛おしい。
苦しくなくなるだけで抱きしめたい。
それは、金銭報酬よりも価値のある、私の大事なものです。

だから損するんだけど、まあしょうがないじゃないすか。そういう生き物なんだから。

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