シチューを作ると「ガラスの天井」が崩れる音が聞こえた
「これは食べ物じゃないから捨てるね」
大学2年生の秋。この言葉を聞いて以来、私は料理を辞めた。当時付き合っていた彼女に言われた言葉だ。
大学の近くに一人暮らしをしていた私には、半同棲をしていた彼女がいた。正確にいうと、門限が厳しく、夕方になると実家に帰るような人であった。
そんな人が、今日は両親が旅行で出かけているから...という漫画でしか聞いたことがないセリフを言って泊まりに来た。
普段なら絶対起きていない時間帯まで、映画を観たり、夜通し話をした。電気を消して天井をみながら横になって話すことは、修学旅行の時の寝る前の気持ちのようで、楽しかった。
翌朝、なぜか早く起きれた。そして、せっかく来てくれたのなら何かしてあげたい、と思った。
まだベッドで横になっている彼女を起こさないように、そっと立ち上がり考える。時計をみると、もうお昼に近い部類の朝になっていた。
そうだ、ご飯を作ろう。
普段は面倒くさがりで外食一辺倒の私は、一念発起して久しぶりにご飯を作ることにした。字面でいうところの「手料理を振舞う」を、恋愛ゲームだけでなく現実の世界でやってみたかったのだ。
近くのスーパーにいき、食材を整える。普段買い慣れていないせいか、ほしい食材がどこにあるか分からずに、スーパーを何周もウロウロする。その時に選んだ料理は、「シチュー」だった。なぜシチューを選んだかは覚えていない。でも、あったかくて野菜が入ってて健康的で、尚且つ鍋物だから作りやすいのではないかと考えた結果であったと思う。
料理アプリがまだ勃興していない時代であったのと、そもそも調べるのが面倒と言うこともあり、頭の中で想像しうるシチューの食材を買い揃える。人参、じゃがいも、豚肉などを買い、シチューのルーも買って安心して家に戻ると、まだどうやらベッドで寝ている様子であった。
埃まみれのキッチンを少し掃除し、料理を始める。じゃがいも、人参の皮をむき、ぶつ切りにする。並行して鍋の水を沸騰させつつ、豚肉のパッケージを開ける。ゴールまでの段取りを組み、いかに効率よく狭いキッチンを使うかを考えながら料理をすることは、非常に面白かった。
1Kの部屋のキッチン。調理中はリビングに続くドアは開きっぱなしにしておく。そうすることで、料理の匂いで目を覚ますのではないか。そんなの、まるでホームドラマのようではないか。そんなことを妄想しながら、2つの器にシチューを盛り付ける。机に配膳すると、彼女が起き出した。
「なにしているの?」
と言われると、我に帰り少し恥ずかしくなり、「朝ごはんを作っていたんだよ」と伝える。
「そうなの!ありがとう」
とまだ起きたばかりの眠い目をこすりながら、普段より少し低くスローな声で聞こえてくる。
そうだよ。このシチュエーションが夢だったんだよ。片手を後ろに隠し、小さくガッツポーズした。
机に座り、彼女がシチューに口をつけた。その後すぐに、自分の目の前にあるシチューに口をつける。まずはじゃがいもを食べようと口に運ぶと、異変に気づく。
食材に火がぜんぜん通っていなかったのだ。料理を作ったことのない経験が仇をとなったのと、すぐに作らなければという使命感から来る焦りから、煮込む時間を十分にとっていなかったのだ。
正直言って、全く美味しくなかった。だが、市販のシチューのルーに助けられ、料理としての体裁はギリギリ整っている。美味しくはない一方で、料理を久しぶりに頑張って作ったという努力に浸ることで、私は全く気にせず、何ならまた温めればいいやと思って食べ続けた。これが悲劇の始まりであった。
横に座る彼女の顔をみると、心なしか無表情であったと思う。そして、おもむろにお皿を持ち、キッチンに向かう。その剣幕に、「どうしたの?」と声をかけてみる。だが、何も返事がない。きっと、温め直そうとしているのだろう。自分も一緒に温め直そうと思い、キッチンに向かう。
すると、あろうことか彼女は私の目の前で自分のお皿のシチューをシンクに流しはじめた。何が起きているか理解できず、茫然と立ち尽くしていると、彼女はさらに鍋に手をかける。今度こそ温め直す、そんなわけもなく、鍋に入ったシチューを全てシンクに流しはじめた。ジャージャーと蛇口から音を出し、鍋に勢いよく跳ねて滴る水の動きと対照的に、私の動きは完全に止まってしまった。
「これは食べ物じゃないから捨てるね」「料理の才能がないね」「仕方ないから洗ってあげる」
何となくこんな言葉を言われていたと思う。そんな言葉を聴きながら、力なく「ありがとう」と言うことが精一杯だった。それから、私は料理の才能がないと思うようになった。それから、その彼女の関係は冷え切り、程なくして消費期限を迎えてしまった。
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うろ覚えであるが、ノミとガラスの天井、という話を聞いたことがある。ノミという虫は、体の小ささから想像できないほど、飛ぶ。その高さは自分の体の50倍になるそうだ。このノミを、ガラスのコップに閉じ込めておく。すると、本来相当な高さを飛べるノミは、見えないガラスの天井を自分の限界と捉え、閉じ込められたコップ分しか飛べなくなる、という話だ。
別に自分の料理の下手さの言い訳にするという意味でこの話を出したわけではない。ただ、この日から、この言葉は私にとって「ガラスの天井」となった。それからの学生生活でも、社会人になり再び一人暮らしをはじめた時も、料理は一切作らなかった。
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それから、緊急事態宣言が出た年になった。外出自粛となった場合の食料はどうしようと本当に頭を抱えた。そして、おうち時間という新しい時代を迎えるにあたり、これを機に料理をはじめてみようか、と思い立った。その時すでに、あの朝食シチュー事件から10年が経っていた。
料理アプリを手に、スーパーに向かう。相変わらずどこに何があるか分からないため、何周も店内を巡ったのち、手にしていたのはシチューのルーであった。あの時料理をしないと決めてから、少し時を進めてみたい、と思った。
時間が、認識を歪めてしまうことがある時がある。一度した失敗のことを、時が経つにつれて、自分自身で拡大解釈をしてしまうことがある。
例えば、私は小学校のころに、鉄棒の時間に一度も前周りができなかった。落ちたらどうしようと思ったら、怖くなってしまった。そして、みんなの前で一人づつ披露するという地獄のような時間で、泣いてしまった。それが無性に恥ずかしく、みんなに馬鹿にされている気がして、それ以来鉄棒の時間は全力で嘘をついて休むようになった。それ以来、鉄棒は一種のトラウマとなっていた。
このことを、同窓会で意を決して小学校の友人に聞いた時、そんなこと覚えていないと言われ、自分のガラスの天井が音を立てて破れた気がした。それから再び鉄棒の前に経つことはなかったが、少し自信が湧いてきたことを、この10年で経験した。
ひょっとしたら、料理もそうなのではないか。未曾有のコロナという状況下で、自分の家で何か新しいことをはじめた人も多いかと思うが、自分は昔の「できない」に向き合うことにした。
キッチンに立ち、鍋に水を入れて火を付ける。大学時代に最後に料理をした光景が蘇る。あの時とたいして部屋の大きさが変わっていないことが少し哀しい。じゃがいもと人参をぶつ切りにし、豚肉を炒めて、ルーと合わせて煮る。昔の反省を活かし、少し長めに煮込んでみる。そして、器に盛り付ける。
1人暮らしの空間でこたつに座り、恐る恐る口をつける。正直、めちゃくちゃ美味しい。これは上手にできたのではないか、と調子に乗りそうな自分の思考を必死に止める。問題は、火が通っているのか、なのだ。
人参とじゃがいも。どちらを先に手をつけようか。もし火が通ってなかったら。不安に思いながら、赤い人参を選び、口に入れる。すると、口の中で柔らかく崩れる人参の音を、触覚を通して感じることができた。成功だ。これは成功だ。くずれゆく人参と共に、私の「ガラスの天井」が崩壊する音が聞こえた。
あれ、そういえば煮込んでいる時に味見をすればよかったのかな。そんな細かいことには気づかないフリをして、ひとりシチューの器を空にした。
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1回目の緊急事態宣言が明け、密かに結婚を考えている、今付き合っている彼女が家に来るようになった。
「今日は外で食べる?」
普段から外食をしているため、外に出る準備をする彼女を止める。
「いや、今日は家で食べよう」
びっくりする表情をみて、自分もびっくりする。でも、今日はもう大丈夫だ。自分に言い聞かせながら、冷蔵庫に入っている土日に買い貯めた食材をみながら夕飯を考える。
「何か手伝おうか?」
と心配する彼女を、心配ないよと、こたつに座らせる。二人で作るのもきっと楽しいが、まずは料理の腕前を披露したいという意味で、少し意地をはった。
キッチンでスープを煮込む。湯気が換気扇に吸い込まれていく。煮込んだ熱気と共に、部屋が少しずつ暖かくなっていくのを感じる。
料理を出したらどんな顔をするのかな。どんな感想を言うのかな。そんなことを楽しみにしながら、一緒に小さな食卓を囲むことを想像する。
キッチンと部屋を繋ぐドアのガラス越しから漏れて聞こえてくるテレビの音を聴きながら、まだか、まだかと完成を焦る気持ちを抑えつつ、少しずつ熱が通っていく食材の様子に、こころが少しずつあたたかくなっていく。この、料理を作っている間の時間が好きになったことに気づく。
できたよ、と声をかける。どんな感想を言ってくれるのか。答えはわからない。けど、美味しくてもそうでなくても、何となくきっと大丈夫な気がする。
そんな安心感を感じながら、今日も自分のために、誰かのために料理を作る。食べると、身体の芯に火が通る。そして、人との関係性も一緒にあったまっていく。
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