「忍 <おし>(埼玉県行田市)」 Map World Column #002
美しい風景や懐かしい街並み
地図を片手に歩いてみると
そこにある歴史や暮らし
それまで見えなかったものが見えてきます
地図柄グッズのクロスフィールドが毎月お届けするコラム
第2回は埼玉のルーツとも言える街、「忍・行田」です。
豊臣に「勝った」城
埼玉北部の街、行田。古くは「忍<おし>」と呼ばれ、映画『のぼうの城』で物語の舞台となり話題となりました。
秩父鉄道の行田市駅より徒歩14分の場所に本丸を構える忍城は、北を利根川、南を荒川に挟まれた広大な沼地の上にある、要害堅固な城でした。
劇中で描かれた1590年の忍城の戦いでは、石田三成率いる豊臣軍が、城主成田長親率いる成田軍の籠城を水攻めにて落とそうとするも作戦は失敗に終わり、最終的に開城するまで落とされることがなかった忍城の姿を描いています。
合戦から400年以上経ったこの地には、今でも合戦の面影を残すものが地理にも地図にも残されています。
幕末の忍城を描いた鳥瞰図を見ると、沼によって何十にも堀が張り巡らされていたことが分かります。
現在はほぼ全ての遺構物が明治以降に取り壊されてしまいましたが、本丸の南側にはかつての土塁が残されております。高く積み上がったこの土塁を見れば、この城を落とすのがいかに難しかったかが伝わってくるのではないでしょうか。
石田三成の水攻め
現在は浮き釣りも楽しめるような市民の憩いの場となっている「水城公園」も、かつて外堀として南側からの外敵の侵入を防いでいました。
このように、幾重にも防御が張り巡らされ、難攻不落の城であった忍城を落とすため、石田三成は豊臣秀吉の命を受けて利根川を利用した水攻めを敢行します。
三成は忍城の南東に位置する丸墓山古墳に本陣を構え、石田堤と呼ばれる全長28キロメートルにも及ぶ巨大な堤防を築いたのでした。
今も残る石田堤
現在でも丸墓山古墳の南側には石田堤が残されており、歩いてみると堤の部分だけ周囲よりも少しだけ高いことが実感できます。古代に築かれた権力者の墓が、戦国時代に戦の拠点として利用されたというのは面白い歴史の巡り合わせですね。
石田堤は丸墓山古墳の南側だけでなく、南へ2.5キロメートル離れた場所にも遺構として遺されています。豊臣軍は石田堤をわずか4、5日で完成させたと言われていますが、予想に反して忍城はあまり沈みませんでした。その後、降り続いた豪雨によって堤防は決壊、水攻めは失敗に終わります。
その後も豊臣軍は抵抗を続ける忍城に攻め入ろうとしましたが、小田原城にて北条氏が開城したことを機として成田氏も開城するまで、忍城が落城することはありませんでした。このことから、忍城には「浮きの忍城」の異名がつくほど、全国的に難攻不落の城として知られることになるのでした。
忍藩から忍県、そして埼玉県へ
江戸時代になると、忍の街は忍藩十万石の城下町として栄えます。
「十万石」そう、埼玉県の皆さんはピンと来たかもしれません。ローカルCMでお馴染みの十万石まんじゅうはここ行田がふるさとです。「うまい、うますぎる」
そして迎えた明治維新。明治4年(1871年)7月の廃藩置県では新政府側についた他藩同様に忍藩は廃藩となり、新たに「忍県」として設置されました。しかしそのわずか4ヶ月後、近隣の岩槻県、浦和県と合併して「埼玉県」が誕生したのでした。
そもそも「埼玉」の由来は実は行田にあり、読みは違えど「埼玉(さきたま)」という地名が今も存在しています。
行田が埼玉を2度救う??
「埼玉(さきたま)」からほど近い「古代蓮の里」には、某映画で一躍有名になった埼玉県唯一のタワーである「行田タワー」がそびえ立ちます。
劇中では大阪府知事の「日本大阪化計画」から埼玉を救った英雄として描かれる行田タワー。
思えば400年前に大阪城の豊臣勢からの攻撃を鉄壁の防御で凌いだのもここ「行田」でした。
映画の制作陣がそこまで深読みしていたのかどうかは知る由もありませんが、行田・忍の一帯を一望できるタワーからの眺めは街歩きの締めくくりにふさわしいポイントです。
行田の街を歩いてみると、石田三成率いる豊臣軍の壮大な侵攻作戦と、地形を巧みに利用して防御を構えた忍城の堅牢さを窺い知ることができます。皆さんも地図を片手に、行田をぶらぶらしてみてはいかがでしょうか。
参考情報
忍城址・行田市郷土博物館
住所:行田市本丸17-23
TEL:048-554-5911(行田市郷土博物館)
行田タワー(古代蓮の里)
住所:埼玉県行田市大字小針2375番地1
TEL:048-559-0770
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