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敬意を上回る資本の価値

たまたまある対話の中で村田森の話になって、たどり着いたこの展覧会。
どうも村上隆が村田森を見出したような感じだったと伝え聞いた。

北大路魯山人のオマージュみたいな書き方がされていたが、魯山人を引き合いに出しても、どこまでも近づくことさえない。
出発点が全く異なる上に、双方の接点がはっきり言ってひとつも見出せない。
それらの言動やこの作品?がどれほどの価値を生むのだろうか。

別に村田森・村上隆にその意図がなかったとしても僕には現代アート/美術に日本の民藝や工藝を編入させ、資本の食い物としてそのリングに引っ張り出し、機能させようという活動にしか見えて仕方ないのだ。前哨戦かまた狼煙としての匂い。

そもそも器とは一体なんなのか。
そして魯山人が何故器に至ったか。
書、そして素材、料理、器。その周辺の連想の集大成としての“星岡茶寮”と言う変遷を見れば明らかではないか。
資本と悪魔の契約をした後の現代美術にかつて(日本に確かにあった編集され最適化され進化した)あった美術・藝術、工藝への敬意はあったものではない・・


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