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曖昧な境界線

最近よくドキュメンタリー映画を見る。
特に文明の影響をあまり受けず、昔からの暮らしを続けているものを映したものに惹かれる。
特に心揺さぶられたのはある遊牧民の少女のものだったが、
それはまた別の機会に書いてみたい。

これらの文明から切り離された環境で生きる人々を通じて感じたことは、
あらゆるものの境界線が曖昧でぼんやるとしている、あるいは境界がないということ。
例えば、以下のようなものだ。

子どもと大人
人間と動物
生と死

僕たちが生きる現代社会において、これらの境界線は非常に濃い。
「あっち」と「こっち」は全く別の世界である。

しかし、彼らは明確な区別がないように思う。

大人に媚びず自立した子ども
対等な関係で互いを尊重する動物と人間
生の世界と連続する死後の世界

曖昧であるからこそ、奥行きがあり、想像が広がっていく。
そこで分断が生じないのである。
これはかつての日本においてもそうだったように思う。

例えば、「神隠し」という言葉。

人が突然行方不明になったとき,神に隠されたと解釈することをいう。

wipipedia

現代ではこの言葉は使わない。言い換えるなら「行方不明」だろうか。

両者とも、誰かが突然いなくなったという意味は同じである。
しかし、「神隠し」という言葉は、どこか曖昧さが残る。ある日ふっと戻ってきそうな感覚。優しい響きすら感じる。
一方で「行方不明」は、無味乾燥とした事実を述べているだけであり、「いるもの」と「いないもの」の境界線を引いて分断する。

現代を生きる僕たちはあまりに多くのものに境界を引いて、世界を狭めているのではないかというのが、ドキュメンタリーを見て感じたことだ。
自分と他者という僕自身が当たり前に存在すると考えていた境界。だけど、これも、彼らにとっては、自己は大きな自然に包摂される一部に過ぎないのかもしれないなぁと思ったのでした。

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