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徒然 物語はBUMPに教えてもらった

私は今、小説を書いている。
有難いことに文章を褒めてもらえることが多い。

文章の流れが好き
言葉の紡ぎ方がとても美しい

本当にありがたいことで、泣いてしまいそうになる。

最近『文章の流れ』という言葉をよくいただく。わかる。分かるのだけど、今まであまり聞かなかった気がする。

私は、高校時代に演劇をやっていたため、声に出して気持ちいい、耳で聞いてわかる文章を書いてるつもりだ。それの精度がきっと良くなってきたのだろう。だからこそ『文章の流れ』というものを感じてもらえている。

ふと、久しぶりにBUMP OF CHICKENを聴き始めた。

私の初めてちゃんと認知したバンドだ。
小学4年生の頃かその前後。
ライブにも連れていってもらった。あの頃は城ホールだった。

同時期flumpoolもよく聞いていた。

私は音楽に対する知識や聞き方などがなかった。
だから、声の違いも分からない。
本当にそういうものの才能が無いようで、「これ誰?」とすぐ聞いた。
BUMPが流れていても「flumpool?」と聞くぐらいのアホさだった。

だけど、歌詞を意識して聞くようになって、
「物語の方がBUMP」
と認知できるようになった。

『K』や『ラフメイカー』『ハンマーソングと痛みの塔』
これらは歌で物語を伝えてくれていた。
私はその物語に浸るようになる。

小学五年生の私は、前年度の三学期の期間学校に行かなかった。不登校になり適応指導教室に通った。
ものを隠されるなどの嫌がらせや悪口、仲間はずれ、無視、色々に耐えられなくなり無意味に学校に行く必要は無いと逃げることを選んだ。

だけど、私は5年生になったと同時に学校に行くようになった。何故かは覚えていない。物を隠すなどのあからさまなものは無くなったけど、それでもやっぱりイチャモンを付けられたり、そんなにいい日々ではなかった。

だからその時、『透明飛行船』の歌が物語が肌に感じたんだ。

『透明飛行船』は主人公が小学生だ。
鉄棒に失敗して、仲良し度微妙な友達との関わりや保健室の先生の優しさの後、鉄棒が出来なくなった。取り繕って生きる。それはみんなと幸せに生きるため。
でも、1人で神社で泣く。みんなもそれぞれで泣いている。

優しさの真似事は優しさ。

躓いて起き上がれなくなる年になった。
なんて、話に共感した。
そうだよね、そういうものだよね。そういう捉え方してていいよねって、大好きになった。
ちょっと難しい言葉を使っているのが、大人な感じがして楽しかったんだろう。

藤くんの言葉は物語で、それは本当の想いを伝えるための経由地だ。
届きやすくしている。ただ説教臭くなるのではなく、恋愛を語るのではなく、感情移入させることができるように物語になっているのだろう。

アルバム『RAY』まではよく聞いていたが、それ以降はほとんど聞いていない。
何かが変わった。それは私が変わったのか、BUMPが変わったのか。
今もとてもいいと思うけれど、やっぱり私はRAYまでが好きだ。

私の小説は読みやすいと言われる。
描写が簡単だからだ。
余白があり、読み手それぞれの身近なもので想像してもらいたいと思って書いているから、本来は文学として正しくないかもしれないが、描写があっさりしているのだと思う。

私の文章は何に影響されてきたのだろう。

好きな作家は、森見登美彦さん、森博嗣さん、読んでる量が多いのは米澤穂信さん、伊坂幸太郎さん、恩田陸さん。

好きなアーティストは、今は、
BBHF(元Galileo Galilei)、スーパーノア、ベランダ、andymori、小山田壮平、WurtS、藤井風。

そう思うと誰の文章とも違うと思う。森見、森の理系作家の特有の情報量の多さが好きだけど、私が書く文章は真逆だろう。
米澤穂信さんが1番初めにハマった作家さんであるから、影響されてるはずだけど、いまいちピンと来ない。

BBHFもといGalileo Galileiの世界観も違うだろう。英米文学的な世界観を描いている尾崎雄貴さんの世界は素敵だし大好きだが、自分では書けない。
他は文章を書くことが当たり前になってから、沢山聞くようになったからこだわる部分としては影響されているが、根本は違う気がする。

『言葉の経験』を信じる、を私は大事にしている。

そして、改めてBUMPを聞いて、
ああ、私の原点はここなのだ、
と思ったのだ。

始まりはここなんだ。

『透明飛行船』を聞いている時、私は自分の通っている小学校をイメージして聞いていた。校庭の隅の鉄棒。1階の下駄箱すぐ隣の保健室。近くの神社。
自分事として歌を聴いていた。

私のことを語ってくれているんだと思うんだ。

実際は自分じゃないのに、自分の中にあるその要素を見つけ出して貰える。

ああ、そうだ。
物語とはそういうものだ。

自分事の物語だ。

コピーライトの授業で

ターゲットに自分の話だ、と思わせなければならない。

と習った。しかも、何度も何度も繰り返して言う。それだけ大事なことなんだろう。
コピーライトも短い物語だ。
困ってる誰かの一瞬を捉えて、切り取って、語る。
それは誰にでも共感できることでもあるし、その人だけの感情でもある。
そういうものなのだ。

でも一方で、同時代文学論という授業では先生はこう言う。

主人公の変さを面白がるのが読者の楽しみだ。絶対に共感できない異様さ、頭のおかしいことを本人は気づかずに繰り返しているという滑稽さを読者は笑うために本を読む。

この授業では、芥川賞を受賞した作品を読む。

だから、基本的に純文学的である。
純文学は頭がおかしい。それが面白い。
らしい。
私はイマイチそれを面白がれはしないのだけど、そういうものだと思うと納得出来る。

『破局』の主人公は本当に嫌いだった。なんでやねんってツッコミながら読んだ。
『推し燃ゆ』の主人公も少し欠陥があり辛くなる。それをワーワー言いながら読む。

そういうものなのかもしれない。

だから、私は純文学が苦手なんだろう。

私は、『自分事の物語』を書きたい。

言葉がするりと読者の心に入っていくような、取り留めのなさ。そして、それが染み渡った時に起きる展開。

嗚呼。

となるような物語。

それを書くには長編ではなく、ショートショートになってしまうのだろう。

だけど、そろそろ長い物語を書いてみたい。
というか書かなければならない。
できないことに挑戦しないままではいけない。

12月27日で私はnote365日連続投稿を達成する。

1年間毎日頑張ると決めた。
その結果はどうなのかいまいち分からない。
でも終えることが出来そうだ。

だから、次のステージに行こうと思う。
365日連続が終われば毎日投稿はやめて、内容を磨いていくことにしたい。
小説を丁寧に書く。
長編を書いて、公募に出そう。
ひとつひとつと向き合う。質を高める。

そうなりたい。

頑張るしかない。

私の物語は、私のものだった。
その一部を誰かに届けることが出来たらいいな。
できるだけ多くの人に。
小説に親しみのない人まで。
物語は心を救う。

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