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SS『4階トイレから見る空気』

トイレの窓から山を見るのが好きだった。休み時間の初めの5分間は、窓のある一番端の個室に入ってボーッとしてきた。雨の日も、曇りの日も、晴れの日も変わらずルーティンとしてその時間が大切だった。

なんて山かも知らない。隣の県の山かもしれないし、どこにあるのかも知らない。
遠くの山は、気候によって見えたり見えなかったりする。それを毎日、毎時間確認するのだ。

今日は空気が澄んでいるな。

ああ、今日はあの山がしっかり見えないよ。

そういう日は不安になった。教室の中の苦しさを思い出し、息をゆっくり吸いたくなった。窓を少しだけ開けて、肺に空気を貯める。学校のトイレなんて汚くて臭いと言われるけれど、ここが一番綺麗だと思ってた。

風が流れて、あの山に包まれた気持ちになる。喉の奥が痛くなって、こらえた。頭の中がなにかに引っ張られている。逃げ出す場所は無いけれど、ここなら少しだけ休める、ということにしたあの日は私の生き方を左右した。

一時間目が終わってもトイレで息をつくことが出来なかった。二限目の終わりも全体遊びで鬼にされたから一人になることは許されなかった。
やっと、一人になれた。便座にへなって座り込む私の足には震えが来ていた。疲れてしまった。

今日はやけにあの山が見える気がする。窓から眺める街は鮮明で、山の緑がまるですぐそこにあるかのように感じられた。口角が少しだけ緩んで上がった気がする。

あそこはさぞかし気持ちがいいだろうなぁ。

窓を開けて、大きく息を吸った。チャイムが鳴る前に席に座らなければ、またなにか文句を言われる。気持ちのいい外の空気だけが、私の酸素なんだ。今吸った分を教室の中で少しずつ消耗する。無くならないように、消費しないように、吐く。

朝、登校したら上靴がなかった。かたっぽだけ。きっと、昨日帰る時に急いで入れたからどこかに転がっているのだろう、そう思って探したがどこにも無い。どこか遠くから笑い声が聞こえた。いつものあの声。犯人がいる紛失だった。悲しさよりも先に、不便を思い先生に報告する。貸し出された深緑色のスリッパは、先生に呼び出されたときにお母さんがいつも来客用靴棚から取り出すものと同じで、金色の学校名が書かれている。

朝学習の時間も色んなところを探した。手の空いてた先生も探してくれた。だけど、どこにも見当たらなかった。

早く、山の状態を確認したかった。空気の住み具合を確認したかった。きっと今日も綺麗に山が見えるはずだから、見えてくれなきゃいけないんだ。

トイレに駆け込み、窓を開ける。私の希望通り、鮮明に見える山がそこにはあった。視界が歪む。冷たさが頬を伝う。泣いていてはいけない。弱い私は許さない。長袖の袖で涙を拭い、もう一度山を見た。山の鉄塔がどれだけ見えるかを確認したかった。

木が見えた。
揺れる葉っぱが見えた。
土が見えた。

いつもの山が緑色ではなかった。緑だけのただの遠くの山じゃなくて、すぐそこにあるように緑じゃない内側の部分まで見えている。胸の奥の方が急に走った後のように緩和と痙攣をした。

チャイムが鳴った。急いでスリッパを鳴らして走る。大きすぎるそれは、まるで警告音のようであった。

教室はどことなくひりついていて、私は何事もなかったかのように席に着く。私のことを見ている。誰もが。嫌だった。居場所はここにないのだとずっと前からわかっていた。

先生が「河原さんの上靴が無くなりました、見つけた人は先生に持ってきて」と言った。その言葉は、地雷原を踊るように歩く。空気の揺れる音がする、不味いガスが充満したような部屋の空気は誰かにとっては生きやすいんだって、ずっと前から知っている。

ニタニタと笑い「大変だねぇ」と声をかけるあいつとか、「不思議だねぇ」と返事するあの子とか、「自業自得」と呟くみんなの声が私の中に溜まっていく。

ああ、もう外の空気が足りない。肺には新しい酸素が入らない。ここで死ぬんだろうな。息が出来なくなって、倒れて楽になるんだろうな。

頭が動く。動く頭。誰にも理解されない思考と、スリッパのパカパカはどこか似ている気がした。

全体遊びだから、教室を出ろと急き立てる。
嫌だといえば、非難される。少し遅れても、喚かれる。そして、先生にチクられて怒られる。こんな苦痛誰がなんのために作ったんだろう。閻魔様か神様か。

吐き気を感じながら、青空の下に引き出される。私の居場所は影のない校庭のど真ん中じゃないはずなのに。

一番最後に来たから河原さんが鬼ね、っていつものあの声で死刑宣告をされる。今日は多数決で氷鬼だから。木霊する刑執行の響き。

三十人対一人。

口の仲いっぱいに血の味がするから、きっとこれは地獄なんだと思う。死んだ後に閻魔様が裁きを下すやつ。私は全体遊びの刑に処されたんだ。1人でぐるぐると、永遠に走り続ける。
誰かをタッチしたら、すぐに助けが来て氷は溶ける。私の手から出る氷の力は少しも寒くない場所には連れて行って貰えない。

止まれば「なんで走らないの」ってぐちぐちとグチュグチュなものを浴びせられる。キャー逃げろって去っていくクラスメイトを追う。彼らはもう別の遊びを始めてる。

早く終われ。
誰か助けてくれ。

チャイムが鳴る5分前、次第に校庭にいたこどもたちが帰っていく。やっと解放される。トイレに駆け込みたかった。もう動かない。体が軋む音がした。だけど、あのトイレからあの山を見なければ、私はもう。

階段をあがり、一番奥のトイレに入り、鍵をかけた。窓を開けて、思いっきり息を吸った。吸えなかった。肺がしょぼくれて、上手く広がらない。焦る頭を支配できずにいた私の耳になにかのざわめきが届いた。それは、学校の喧騒ではなく、もっと穏やかな日々の暮らしの一部のような草の揺れる音と川の音だ。

目を開いた先には、山があった。
いつものあの山がすぐそこにあり、その奥には村のようなものがあった。家と笑い声。そこに優しそうなふくふくの女の子が歩いていく。何も無いはずなのに幸せだと分かるその笑顔に声をかけていた。

「ここなら大丈夫だよ」

黄色の光に包まれた。彼女の声は、どこまでもふかふかで休みの日の布団のように暖かく幸福であった。村の中から、たくさんの人がでてきた。みんな、息の仕方を知っていた。私が五分だけの時間で肺に貯めた空気で、生きていた。ここに来たら、あの空気をずっと吸っていられる。汚れのない、綺麗な色をキラキラさせて集めたような空気を私は胸いっぱいに吸い込んだ。喉の痛みも体の重みも無くなって、笑いが漏れる。

ここに来たかった。
もう帰らない。
私は、この村で生きてくの。
山奥の村は、私の場所だった。

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