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短編『ラブホの間違い電話』

 大きく伸びをした。冷たいシーツを感じながら、ベッドに寝ころんだままの裸の私は布団から顔を出した。恵太朗さんの肌が触れ合っているところだけ少し湿っていて、離れようとすると吸いついたものが徐々に取れるような感覚になる。割と私の一部となりつつある恵太朗さんは、私を抱きしめながら眠っている。

 枕元にコンドームと並べて置いたはずのスマホを手探りで探す。画面をつけて、あれ。
「しーちゃん、どうしたの?」
 スマホを覗き込むついでに足を絡めてくる。
「なんか電話がかかってきててん、ま、迷惑電話やろうけど」

 不在着信の文字が並んでいた。0742から始まる番号には心当たりもないけれど、そもそもこのスマホの電話番号を知っているのは恵太朗さんぐらいなわけで、全部間違いか迷惑電話なのは当たり前だった。自分の番号ですら数か月前に買い換えたばっかりだから覚えれていないというのに。数字を覚えるのは苦手だ。

 恵太朗さんの指の腹がへそからスーッと腹筋を通り、下乳の際を撫でられる。耳の下にキスをされる。快楽が背中を走る。スマホを放って向き合い唇にキスをした。

 まだ十一時。八時集合でラブホに行くなんて、あほで最高に楽しいデートだ。夏休みの一コマとしてこんな日はあってもいい。最近の夏は暑すぎる。だから、クーラーをガンガンに冷やして自由にいられるこんなデートのほうが、巷を歩いてご飯食べに行ったりするより快適だ。

 テストもレポート地獄も全部終わらせて、何も考えずに恋人と交わる夏が来た。大学生らしくってワクワクする。

 汗をかいた、お風呂でも入ろうかと立ち上がる。ラブホテルというものは時間の感覚がなくなる。窓には外が見えないような扉がついているし、時計も見当たらない。きっとどこかにあるはずだけど、今どきスマホさえあれば必要ないんだよな。大学のテスト会場に時計がなかったことと比べたらなんの不便もない。

 恵太朗さんが私のスマホで時間を確認する。
「なんだ? 浮気ですか?!」
 ふざけた声を出しながら、私に詰め寄ってくる。浮気なんてしてないということは承知の上だ。示された液晶には不在着信の文字。しかも、0742から始まるさっきと同じ番号だった。番号をコピーして検索する。どうせ変な詐欺かなんかだろう。
「奈良市保護二課……?」
 どうして、奈良県? 現在地も住所も大学も全て大阪だ。奈良県とは何も関係がないのに、何故奈良の市役所から私に電話があるのだろうか。保護課って言ったら、生活保護の類だろうか。
「なに? しーちゃん、隠し子とかいるの?ねえねえ」
 恵太朗さんは出会ったときから変わらない笑顔で、少し甘えた私だけにしか出さない声で喋る。背後から甘えてくる年上にこんなにも愛情を感じる日が来るとは思わなかった。彼の伸びた前髪が耳に当たる。こそばゆくて、温かかった。二〇センチ以上高いその体をどうやって折り曲げているのだろう。引っ付き虫な一つ上の男は、まだ男の子って感じがして好きだった。
「ばかじゃない? なんやろ、まぁ間違い電話だろうね、打ち間違いに早く気づけよな」

 スマホをベッドの上に投げて私たちはお風呂に向かう。楕円のようなダルマ型のようなお風呂は二人で入るにはちょうどよかった。ジャグジーが腰を刺激する。バスローブは紫色で、ちょっと派手だと思いつつブラもパンツもつけずに着る。「かわいい、似合うね」となんでも褒めてくれる彼は、どうして今まで彼女がいなかったのか。でも、それでよい。私以外の女を知ってるなんて嫌だった。

 映画を見ながら時間を過ごす。今日はフリータイムで入室するって決めてるから、どれだけ遊んでも時間を無為に過ごしても、九時ごろまではここにいられる。どちらかが一人暮らしだったら毎日こんな時間を過ごせただろうと思うと寂しい。

 でも、だからこそこの時間が幸せだって、貴重だって思えるのだろうな。恵太朗さんがデート中にスマホをいじらないでいてくれるから、私も一緒にいるときは触らないようにした。スマホ中毒者でも他に楽しいことがあれば慣れるものだ。とはいえ、一切触らない恵太朗さんと比べたらちょこーっと触ってしまう。いや、全然触ってしまう。通知が気になって仕方がない。映画のエンドロールが流れ出したとき、ベッドにスマホを取りに行く。
「うっわぁ」
 また電話が来ていた。やっぱり同じ電話番号。
「ここまで来たら確実に、私宛にかけてきてるやんな?」
「そうだろうなぁ、かけてみたら?」
 電話は苦手だ。しかも、こんな訳の分からない心当たりもない電話に折り返しするなんて、ドキドキした。でも、スピーカーにすることで自分だけで背負わなくていい気がして少し楽だった。

 コール音が続く。ぎりぎりだけどまだ五時にはなっていない。市役所ならば営業時間内のはずだ。三コール、ガチャっという音がした。
「すみません、なんか電話が来てたんですけど、わかりますか?」
「保護課ですけど……? 聞いてみますので、お名前は?」
「鳥野です。鳥野静華です」
 保留音がラブホテルの一室に響く。すぐに心臓がわなわなしてしまう私は、恵太朗さんの膝に倒れこんで安心を求めた。
「めっちゃ馬鹿にしてたよな」
 ニヤニヤしながら、頭を撫でてくれる。熱が伝わってくるのが気持ちが良かった。
「やっぱり? そうやんなぁ、そっちから電話かけてきたくせにさぁ」
 心の中に生まれた薄っすらと黒い靄が胸に置いた恵太朗さんの手によって吸い取られていく。恥ずかしい思いとか、悲しさとか怒りとかそういうのが共有することで一度膨張して穴が開いてしぼんだ。
 「もしもし」の声が聞こえてピリッとした何かが体を走る。心臓が一瞬ギュンッて。私は本当に電話が苦手なんだな。
「すみません、こちらで確認した限り誰もかけたって人はいませんね」
 あー、さようですか。何かわかったらお電話ください。なんて答えたけど、笑えて来てしまった。
「なんだったんだろうね」
 電話を切って私はベッドに飛び込んだ。キングサイズのそれは、ぐわんと大きく揺れてちょっとだけ酔う。また布団は冷たくなっていた。
「しーちゃんが頑張って電話かけたというのにねぇ、よちよち。いや、マジなんだったんだろうな」
 うつぶせで寝る私の上に恵太朗さんの全身の圧が加わる。その重みは気持ちが良くて、ずっとこうしていたいぐらいだった。全ての言動で私のことが大好きであることがわかって、もうそれだけでいいなって思う。
「ま、なんもないならいいんですよ」
 背中を舐められて変な声が出た。はっともひゃとも言えない裏返ったような声に恥ずかしくて耳が熱くなる。それよりも熱いものがお尻の割れ目にあてられてるのが分かる。
 もう一戦したら帰らないとな。

「ありがとう、楽しかった、また行こうね」
 改札の前で別れを告げるけれど、手はまだ繋がっていた。離れがたくてそうしているけれど、もう少しで電車が来てしまう。門限前に着くぎりぎりの電車が。手帳型のスマホケースにICカードが入っている、だから、切手は買わなくていい。帰宅ラッシュの余韻で駅には人が多い。というよりも、九時十八分の電車なんて日ごろから残業のサラリーマンの帰宅時間か。もう一度ハグがしたかったけれど、この人混みの中ではする勇気がなかった。
 眉毛が少しだけ下がった表情を見ると大好きだよと言ってあげたくなる。じゃあねまた来週、と手を振り私は改札を抜ける。階段を降りていく私を見えなくなるまで見守って手を振っていてくれた。いつも通り。

「今日はドライブをしよう」
 恵太朗さんが家の前まで迎えに来てくれた九月十五日は、あの頃より少しだけ柔らかくなったとはいえまだ暑かった。私はお気に入りの服を着る。水色のノンスリーブワンピースにカーディガンを羽織ると幸せが始まったように感じた。

 今日は奈良の川に行くつもりだった。暑くて仕方ないから、冷たい小川にでも足をつけようって、そうすればきっと涼しくなるよと誘い出された。水に触れることは幸せだ。海より川のほうが好きだった。いつの日かそれを言ったことを覚えていてくれたのだというその事実が嬉しくて仕方がなかった。
「あ、ねえ、ここら辺に行きたいカフェあったんだよ。行かない?」
 私は繋いだ手を振り回した。一回り大きい手が同じように振ると私は手だけでなく、全身が振り回される。行かない、なんて言われないことも知っている。甘いものが好きな恵太朗さんに食べさせたいケーキがあったんだ。
「あれ、この辺もう奈良市なんやな?」
 入り組んだ場所にある古民家カフェを探していると今どこにいるかわからなくなってくる。ここら辺のはずなのに、マップが現在地を示してくれなくなった。GPSが機能しないのって本当になんでなの。

 スマホが真っ暗になった。ドキッとする。電話だ。0742、あの電話番号。もしもし。
「すみません、お電話元、首藤秀樹さんのご家族の首藤陽子さんであってますか?」
「いえ、違いますけど……」
「あれぇ、おかしいな。首藤さんのこと御存じないですか?」
「え、あ、知らないです」

 肩が叩かれた。振り返ると恵太朗さんが横の建物を指さしていた。スマホからは向こうが私に喋りかけている声がする。

 崩壊していると言っても過言ではないようなおんぼろの家がそこにはあった。気付いていなかった。恵太朗さんは表札を見ている。
 首藤秀樹。
 スマホから舌打ちが聞こえた気がした。電話が切れていた。そもそも、電話なんてかかってきていなかった。履歴を見ても電話は昨日恵太朗さんと予定を合わせるためにしたのが最後だった。
「今の何?」
 なにか変なことが起こっている、そうは思うものの何もかもが分からなかった。だから、恵太朗さんが笑って言った「カフェ探そうか」の言葉に乗っかった。気にしないことにした。せっかくのデートなんだから無駄にしたくなかった。

 夏休みの最後の日、私たちは前回のホテルに来た。最大十七時間利用可能なのに圧倒的に安い、そのうえクーポンをもらったから来ない理由がなかった。なんて言っているけど、ただああいう時間が好きで仕方がないんだ。実家暮らしだと家族に振り回されてしまうから、恋人とだらだらとした時間を過ごすのが何よりの幸せだと感じる。
 肌を重ねるごとにそれに対して違和感も拒否感も感じることがなくなっていく。愛おしそうな目を向けてくれる恵太朗さんを受け入れることが幸せだった。

 前回よりもいいこの部屋の中心にはマッサージチェアがあった。黒を貴重とした内装にシャンデリアの光が反射する。意味の分からないパチンコ台は、葡萄の房の絵でリーチになっている。枕元のライトは丸くて可愛かった。大きいテレビでは動画配信サイトでちょっとだけ見たかった映画をなんとなくつけていた。ベッドのなか、空調に冷やされた布団を纏う。

 都心なのになんでこんなに安いんだろうね、なんて適当に言ったら、恵太朗さんが何かを調べ始めた。
「あ……」
「なにさ」
 スマホの中を見るとそこには地図が表示されている。だけど、それは普通のものではなく、炎のマークがいくつも書かれていた。
「ここで、人死んでるっぽいわ。よくわからんけど」

 テレビでは、ショートパンツの金髪女子ががたいのいい男性に抱かれていた。ピンク色の乳首が露わになり、首筋に噛みつくようなキスをされていた。愛おしいという感情のないセックスは、死を呼ぶ。

 恵太朗さんと触れ合っている肌がぬるついた気がして、布団をはぎとりたくなった。だけど、外は寒すぎて、このまま温かい場所に痛いと思ってしまったんだ。体勢を変えて、恋人の腕に抱き付いた。恋人という響きが好きだった、愛する人だから愛人のほうがいいだろうにそれだと不倫になるのはどうしてなの。ベッドの湿り気をかき消したくて、恵太朗さんの肌に鼻を押し付けた。皮膚の臭いが私の中に入ってきて、脳を溶かしてくれる。大丈夫だと感じるから目の奥が痛くなる。自分の中の不安定さが溢れてくるのが嫌で、そっぽを向いてしまう。
「さむい」
「クーラー弱めてくるね」
 すぐに動いてくれる彼が好きだった。だけど、馬鹿みたいに強くしたのも好きな人だった。だから、私は自分でクーラーの温度を調整しに行くことはない。

 恵太朗さんが出ていくことで、冷気が布団の中に入ってきて鳥肌が立つ。体のどこかを触られたような違和感がくる。逃げるように全身を布団にうずめる。

 ふわっとした温かさに包まれる。戻ってきた恋人のぬくもりこそ、私が求めていたものなんだ。そしてもう一度、大事にしてもらう。生きることと愛されることは同じであればいいのに。

「忘れ物ない?」
 鞄を持った恵太朗さんに声をかけられる。部屋を見渡す。ベッドの布団は乱れたままだけど、枕元には私物はない。マッサージチェアにも、テーブルにもソファーにも、散らかりはあるけど私のものはない。大丈夫、と言って支払いをする。メンバーズカードと割引クーポンをかざして、表示される値段の半分を出そうとした。

 「いいから」と笑って払ってくれるから申し訳なくなる。よし、次のご飯は絶対におごると決めて「ありがとう」と言う。「こちらこそありがとうね」なんて言ってくれる彼のような存在を私は失ってはいけないなと思うんだ。

 ドアの外は、薄暗く紫色のカーペットが続いていた。点のような照明からは弱い光がムードを作るために照らし出されている。並ぶドアがふわっと浮かび上がる。

 ガチャとドアを閉めた恵太朗さんと手をつなぎ、その道を歩く。どちらにいけばいいかは迷わない。角部屋だったからと前回来た部屋と同じ階だったから。

 この非現実感に心躍るのと同時にもうすぐバイバイしなきゃいけない悲しみが襲い来る。それを押し殺すように腕に絡みついて、「楽しかったね」と笑いかけた。

ドアが開いていた。

四○三号室の次の部屋。走りたかった。一刻もここから逃げてエレベーターに乗って、恵太朗さんとの最後の時間を惜しみたい。

私は歩いている。ゆっくりと、ゆっくりと、一瞬だったはずなのに、空気のまとわりを感じる。

 闇があった。

 ドアの中には、闇が広がっていた。目が合った。その中から覗いている顔と私は目が合ってしまったんだ。

 気付いていない恵太朗さんが私を導いていく。エレベーターに乗る前に振り返る。もうしまっていた。しまっていた。

 吸った息はぬるく私の中に溶け込まなかった。前回、私たちが愛し合った場所で彼女は誰を待っているのだろう。

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