見出し画像

チカラを手に入れると使いたくなるし、使うための敵も欲しくなる(けど、考えたら敵っていない方がいいよね)

「実際にトラブルにあうと武道は役に立たない!」といわれたり、「いや、あの技は有効だ!」といった話題は時々でる

けど、本当に暴れてる人間をなんとかするのは、あんまり武道は関係なくて
『どうしたん?話きこうか?^^』
『なんか大変そうだからコーヒー、2つ買ってきた。どっちほしい?』
とか普通に話すと経験上、わりとバトルいらない

そもそも戦うのが目的でなく、暴れてる兄ちゃんが落ち着けばよいので。

でも中途半端に武道をやると 「戦いたがる」 「戦う理由として、敵を欲しがる」 タイプが結構うまれます 。
なんなら、本来は戦う必要がない相手をわざわざ、警戒させて「敵」にしたてあげて戦いたがる人種すらいます。

でも、なんか暴れてる相手に対して、なんとかしようと強く掴んだり、暴れるのを抑えこむと相手はさらにエキサイティングする。
構えても相手はエキサイティングする。

いわゆる「武道的•武術的なこと」「技術的なこと」をやると、ほとんどの場合、相手は更に興奮する。
さらにテンションが上がった相手をみて、自分もわちゃわちゃして興奮する。
互いが、ますます怖くなっていく相手をみてドンドンおかしくなっていく。
吉本新喜劇のコントからツッコミ役が消えたように、だれも歯止めがきかず、ひたすら状況が悪化する。

中国のことわざで「拳法を習うものは殴られて死に、水練を習うものは溺れて死ぬ」という趣旨の言葉があるそうですが、恐らくこういう背景があるのでしょう。

ところが構えたり、強い口調で話しかけるとかしないで、相手の興奮に反応せずに対峙すると、わりと相手は落ち着く。武道っぽいことをしないほうがなんか巧くいく。
武術の師匠にならったが、これが面白いくらい興奮した人間にも役立つ。

「刀は鞘のうちにあるのが一番役に立つ」という話をきいたことがありますが、刀に自らが振り回されないのが一番よい塩梅かもしれない。

相手を敵と認定して触るとそれが伝わるし、対話しても「敵」として話すとそれが伝わる。
相手を敵でなく「ただの兄ちゃん」ぐらいの認定して接するとそれが伝わる。
ただの兄ちゃんとして、扱うと暴れる人間は主張があるので、動きを止めて話をしたがるのが多かった。

ものすごく的確なコメント、ありがとうございます。

人間が暴力を振るう時って、要するに自分の言いたい事が届かない時におきます。段々口調がキツくなって、次第に大声になり、そして暴力にいたります。

逆に言えば、暴力を既にふるってる段階の人間でも
『どうしたん?話きこうか?^^』
といってくれると、話しを聞いてくれる機会が与えられるので、少なくとも一度は手がとまります。

『どうしたん?話きこうか?^^』ってマジで強力な言葉なのです。

なんなら、暴力を振るう人間ほど自分が正しいとすら強く思っている。
ので、よくよく彼らの話を聞いて『なるほど、自分が正しいと伝えたかったわけだね』というと我が意を得たりと大喜び。

『正しいならば警察で主張したい?』と聞くと是非したい!といって、警官が来るまで大人しくまってくれて、本人から進んでパトカーに乗車して警察署まで同行してくれた方もいます。

『どうしたん?話きこうか?^^』はお持ち帰りの秘技なのです。

このように実は暴力とはスマートではありませんが、コミュニケーションの一種ではあります。

その前段階のコミュニケーションで相手の主張が通らず、逃げ場がないか、拒絶された場合に行われる事が多く、同時に対話の機会が与えられたら暴力が放棄・停止されることは珍しいことではありません。

『戦いはもっとも非効率な交渉手段であり、戦術無く正々堂々と戦うのはさらに非効率な戦闘手段である』って言葉もありまして、戦闘より良い方法で交渉したいもの。

対話は万能でないけど、 『敵としてでなく、人間として話す』 は経験上、とても役立つものです。

注意点として対話が大事!という人も 『お前は悪で、私は正義!その正義の代理人の私が寛大なる心で御前の話を聞いてやろう!』とやりがちだけど、あまりアレはうまくいかない。むしろ、敵意がビンビンに伝わって相手が大抵、ブチきれる。

これって会話の形をとっているけど、中身は暴力とあんまり変わんない

とはいえ、暴力というものはヒトにとって根強いもので、人類がお猿さんだった古来より手っ取り早く、自分の意思を通すのに役立ってきました。
言葉が通じない相手にも散弾は通じるの、凄いじゃないですか。

おそらく、寿命も短く、集落の規模が小さな時代までは、暴力がモノをいう「北斗の拳」みたいな時代までは、暴力がモノをいう「たっぽい(Tough Boy)」がブイブイいわしていたのでしょう。

ただ、暴力っていうのは短期的には力任せに自らの意思を通すことができても、長い時間をかけて自らのチカラが衰えると必ず、屈服させられた相手は報復をおこないます。また周りの人間にもヤベー奴と思われる。

人々の寿命が延びて社会が成熟し産業が発達してくると、人と人の繋がりが何重もの複雑にかまらってくると暴力による浄化作用がそれほど効率がよくねーな、なってきたと考えられます。

恐らく人類は時間をかけて、暴力に頼らずにトラブルを解決できるために、法律、モラルなどを作り上げ、会話による解決という技術をつくりあげていったのでしょう。

ここら辺は、少し前に面白そうなのでマトメてみました。

で、面白いと思うのはチカラと対話ってまったく別モノと考える人がいるのですけど、恐らく繋がっているのです。

法律のチカラを担保にするのが国家のチカラであるように、対話というのもチカラが背景にある。
ただ、チカラと言ってもそれが暴力とはかぎらず、その人の財力、信頼力とか色々なものなのです。

『戦いはもっとも非効率な交渉手段であり、戦術無く正々堂々と戦うのはさらに非効率な戦闘手段である』と先程あげたのはここら辺なのでしょう

対話で解決しようとする姿勢は尊いですが、そういう自分を正義と驕って相手を見下して悪とみなす時、大抵は対話は成り立ちません。

また、相手が暴力に走る背景を理解せずに、殴ってスキッと爽やか!では唯の自己満足で状況の収束を行うことはできません。

「我々は、常に一方の手に剣を持ち、他方の手にはオリーブの枝を持っていなければなりません」 メッテルニヒの言葉です。

最後まで読んでくれて有難うございます。
他にもマトメ・記事を手掛けてるので、よろしければ其方も御覧ください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?