見出し画像

香水と線香と

あぁそうだ、思い出した。この香りだ。
田舎くさくて古くさい、線香の香り。
グレーに近い深緑の細い先端に
小さな赤を灯して煙を放つ。
高く軽やかに上には登っていかず、
どこか澱んだ質感を持って低いところを静かに漂う。
18の頃、この香りを避けるように街へ出た。


記憶も曖昧な3歳の頃、父方の祖父を亡くした。
真面目で仕事熱心で
笑うと目尻が垂れ下がる優しい祖父は、
幼い私の手を引いて公園を歩いてくれた。
そんな祖父との思い出も、
すべてアルバムの写真によって認識できているわけで
私の記憶にはもうほとんど残っておらず
仏壇の遺影でしか存在は確認ができない。

仏壇のある我が家では、祖母や両親が
毎朝仏壇に手を合わせて出かけた。
家へ遊びに来た親戚や近所の人たちも、
皆一様に祖父の仏壇に手を合わせ、
線香に火を灯してお茶を飲みに来る。

線香の香りで包まれる部屋の中、
上がる話題は近所の噂話や天気の話。
心躍るような目新しい話題はそこになく
ただ静かに、興味のない話に相槌を打ちながら
漂うあの香りを鼻から吸って、吐いていた。


もっと広い世界を見たい。
もっとわくわくする話を聞きたい。
こんな田舎では、夢なんて見れないと息巻いて
高く軽やかに舞い生きたいという欲求を抱え
故郷を離れて都会暮らしを始めたのが、18の頃だった。

都会の街の香りたちは、
私の嗅覚と好奇心をえらくくすぐってみせた。
街行く人の高級ブランド香水は、
気取った香りがした。
喫煙室から出た上司のスーツの香りは、
どこか愁いを帯びていた。
夜更けのバーのウイスキーの香りは、
大人の諸事情を匂わせた。

そんな街に住む私自身も、いつしか香水を身に纏い、
都会の香りを演じるようになった。
田舎者であることを悟られまいと、必死だった。
気付くと、深い呼吸をすることを忘れ
生きるのに最低限必要な酸素を
吸って吐くだけの生き物になっていた。


とうとう息ができなくなった私は
故郷へひっそり逃げ帰った。
仏壇の前に正座をし、線香の先に火を灯し
りんを鳴らして手を合わせて目を閉じる。
こんなに深く息を吸い込んだのは、いつぶりだろう。

迎えてくれたのは、あの田舎くさい香りだった。
こんな場所じゃ何もできないと言い去った私を
ここでは何もしなくていいんだよ、と
何も聞かず静かに迎え入れてくれた。

あぁそうか。やっぱり私は田舎者なんだ。
どれだけ艶やかな香りを身に纏っても
私の体の根底に漂うのは、
この質素で慎ましい線香の香りなのだ。

もう記憶にも曖昧な祖父の存在が
静かに守り続けてくれているこの香りが、
私がこの町この家の人間であることを
記憶に深く刻み込んでくれていたことに気が付いた。


こうして私はまたこの町を離れ、
都会の暮らしに戻っていく。
体のみを広い別の世界へ置くだけで
自分自身は結局のところ
どこにいてもまだくすぶっている
小さな小さな存在でしかなく
華麗に羽ばたき舞い踊ることなど到底できていない。

ただ、何をしてもしなくても
祖父の仏壇から漂う線香の香りが
いつでも静かに迎え入れてくれるという
確固たる安心感だけを持ち合わせ
また都会の街へ繰り出していく。
最後に、一降りの香水も忘れずに。


この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?