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日本語はなぜ、主語を省略するのか。

「空気を読む」とは?

「あいつはKYだ。」KYは「K(空気が)Y(読めない人)」の略で、「空気が読めない人」を非難するときに使う言葉です。十数年前から女子高生などを中心に使われ、今では広く一般に知られている言葉です。

そもそも「空気を読む」って何?どういうこと??これは日本語学習者には理解しにくいことの一つでしょう。今日もアメリカ人の学習者が帰り際に、「ぼくは(日本の)職場でよく空気が読めないって言われるんです。日本語のニュアンスって難しいですね。」と言っていました。

この空気は「場の空気」、その場にふさわしくない言葉を使ったり、ふさわしくない行動をしたりすると「あいつはKYだ」と言われてしまいます。

日本語は「場」をとても大事にしている言語です。例えば、「公の場」「プライベートな場」、会社やクラブ活動などの「上下関係のある場」等です。この「場」の理解が、日本語や日本社会を理解する上ではとても重要です。

この「場の空気を読む文化」は「ハイコンテクスト文化」とも言います。コミュニケーションが価値観、感覚といったコンテクスト(文脈、背景)に大きく依存している文化を指します。「察する」「忖度する」「以心伝心」「暗黙の了解」が得意な日本は「ハイコンテクスト文化」の代表格。

逆に、「ローコンテクスト文化」とは、コミュニケーションがほぼ言語を通じて行われ、文法も明快であいまいさがない文化を指します。アメリカ、ヨーロッパは「ローコンテクスト文化」であり、英語はその筆頭とされています。

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「日本人同士なら一を聞いて十を知るのが当たり前。でも、アメリカ人は十言っても一しか理解してくれない」とか、はっきり物事を言うアメリカ人を見て、ずいぶんストレートだな、ちょっと配慮に欠けるんじゃないの、とか・・・しかし、この「空気を読むのが当たり前」という感覚は日本人ならではのもので、コミュニケーションのスタイルが違う国々では決して当たり前のことではありません。

コミュニケーションのスタイルは国によって異なります。どちらかが優れていて、どちらかが劣っているということではありません。ただ、ボーダーレス化、オンライン化が進む昨今、世界全体の流れはローコンテクストの方向へと動いています。いろいろな国の人たちが集まれば、その分シンプルなコミュニケーションが求められるからです。日本も例外ではないでしょう。


日本語はなぜ主語を省略するのか

前置きが、すごーく長くなりましたが、ここからが本題。日本語の主語の省略について。


日本語の文章は主語がよく省略されます。初級のテキストでは、だいたい最初のページに「メアリーです。イギリス人です。学生です。どうぞよろしく。」と、いきなり主語が省略された文がでてきます。これは2人が話している「場」、または、わたしの話をしている「場」なので、「わたし」をいう必要がありません。

また、「(電車が)来た!」「寒いね〜。」などの文も主語が省略されていますね。日本語ではその場において、お互いにわかっているものについては、取り立てて言う必要がありません。むしろ、言うと不自然になる場合もありますし、何か意図があるのかなと相手に思われてしまうこともあります。

次の会話例を見てください。

A「今日は、わたしは寒いですけど、あなたも寒いですか。あ、電車が来ました。うわー、電車が混んでいます。」
B「はい、わたしも今日は寒いです。この電車は混んでいますから、次の各駅電車を待ちましょうか。」

日本人同士はこんな会話はまずしませんね。おそらく、次のような感じになるでしょう。

A「今日は寒いね。あ、来た。うわー、混んでるね。」
B「寒いね。そうだね、じゃあ、次の各駅にしようか。」


このように、その場に二人(友達同士)がいて話している場では「わたし」「あなた」はいう必要はありません。つまり、「場」があるから、主語はいらないのです。ついでに言うと、「電車」もすでに共有している話題なので、繰り返す必要がありません。

日本語は「場」を相手と共有することで成り立っている言語です。したがって、日本語の文構造においては、英語の主語に相当するものが必ず選択される必要はなく、「その部分は必要なら加える」がスタンスです。

日本人にとってたいへん便利な「主語の省略」は、日本語学習者にとっては結構やっかいなものだったりします。(慣れれば、それが楽ちんと思う人もいるかもしれませんが・・・)この背景を少し知っておくと、教師側のマインドも少し変わるかもしれませんね。


言葉は文化の重要な担い手

「なぜ敬語を使うのか」「ウチとソトの関係って何?」「なぜ日本語にはいろいろな一人称があるのか」「オノマトペがたくさんあるはどうして?」これらも文化の違いによるものです。日本語教師をしていると、日本語を通して今まで見えなかった世界が見えてくることがあります。なかなか興味深い世界だと思いませんか。「言葉を学ぶこと」は「文化を学ぶこと」、外国語を学ぶことの醍醐味はここにあるのかもしれません。(K)

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