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自分の人生(姿)を見ている(見たい)のは、実は自分自身だけ

自分は今、あの人からどう見られているのだろう…
あの時、私は〇〇さんにどう思われただろう…
自分は周りからどう見えているのだろう…
〇〇さんは私のこと、〇〇と見えている、思っているに違いない、そうなはずだ
周りはみんな、私のことをこう思っているに違いない

……などなどと、日常、人生の中で、いつも思ってしまう人、ありませんか?

いつもいつも、どんな場所でもどんな時でも、そこに誰かいてもいなくても、日がな一日中ほとんどの時間それを考えてしまっている人もいれば、
すべてではないけれど、こういう時だけは思うなあ、という人もいると思います。


こういう時、あなた自身の潜在意識(つまり実はあなた自身の9割以上を占めるあなたそのもの)は、あなたに対して、実は何と言っているか、わかりますか?


…実は、「自分を見て欲しい」と、自分(あなた)自身に、必死で訴え懇願しています。


つまり、あなたの顕在意識は、
「あの人に私はどう見られているのだろう(こう見られたいな)」
「あの人に私はこう見られているのではないだろうか(こう見られたいのに)」
「あの人は絶対私のことをこう思っているに違いない、こう見えているに違いない(私は本当は違うはず、こう見られたいのに)」
…と、思い込んだり悩んでしまうのは、

実はあなた自身が本当にそう思っているのではなく、
あなたの奥の本当の願いの部分から、
「自分自身(あなた自身)に、あるがままのあなた(自分)を見て欲しい」という切なるものが湧き出してきて、なんとかしてあなたの顕在意識の部分に気付いてもらおうとしているのです。


だから、あなたが躍起になって向き合う部分は外側ではなく(外側にどうこうされたい、外側にどうこうさせたい、外側にどうしてもらうには、と外側をコントロールしたり外側に振り回されることではなく)、
”あなた自身の真の姿”なのです。


あなたはもしや、
「他人には私がこう見えている。Aさんには私がこう見えているはずだからこう思っているに違いない」というのが、
”客観視” だと、思っていませんか?

これは、実は客観ではなく、主観です。

言葉を少し変えれば、”自分の内側の目”で、自分の内側で作られた世界の受け止め方、ルールで、自分の内側で相手を判断して決めつけています。
いわば、「あなたの中のAさんはあなたのことを〇〇と思っている」なのです。
この”Aさん”は、外側のAさんではなく、あなたです。
あなたが「何らかの目的のためにそう思いたい」(つまりあなたの中で作り上げたキャラクターにあなたのことをそう思わせたい)ための、あなた自身の一部です。わかりにくければ「あなた自身の一部」ではなく、「あなた自身が作り出した幻想、妄想、ホログラフィー」と思っても構いません。

もう少しだけ言ってみると、これはどうして起こるのかというと、
あなた自身の中に、あなた自身(の代わりにあなた自身の内側に作り出した”Aさん”)が、あなたをそう見たい、見させたい、理由があるからです。
顕在意識では確かに「そう見られたくないからそう見られているんじゃないかと怖いんじゃないか」と思うのですが、実は、あなた自身の奥では、寧ろそう「見られていないと落ち着かない、そう見られていなければ困る」理由が埋まっているのです。

そして、当然ながらですが、これは、外側のAさんとは全く何一つ関係のない話です。
そして、あなたが例えどんなことを思っていようが、外側のあなたと全く別の人生を送っているAさんは、あなたのことを絶対に”そうは思っていません”。
どうして絶対なんて言えるのか?本当にそう思っている可能性もあるんじゃないのか?と言いたくなるかもしれません。しかし、あなたが今思っているような思い方・見え方は決してしていません。これもクライアントさん達には説明をしていますから(もちろんそれぞれのタイミングで、ですが)、知りたい方はおいでくださいね。

同時に、そういうことが頭をぐるぐるする人の持つ傾向として、「あの人はきっとこういうことを思っているんだろうな」「あの人はきっとこう考えている」「こう感じているのだろうな」と、言葉で言うと非常に紙一重で際どいところではあるのですが、いわば「相手の気持ちになって慮っている”つもり”」で、実はこれも主観……相手の考えていることや思っていること感じていることを”わかってあげている”つもりになってしまっていることがあります。
が、これも、”その人”は、あなたが思っているようなふうには、まず、思っていません。あなたが”慮っている”と同じ思考回路おなじ感じ方は、していません。

それらは、実は潜在意識からダイレクトに出て来てもあなたの顕在意識、あなたの脳処理が受け止めない・(自己)理解をしないから、外側の人をメタファー(例え話のキャラクター)として、” (あなた自身ではなく)あの人のこととして” 暗号化符号化して出てきている、あなた自身の考えや思いであったりするのです(ただ、あなたの顕在意識はそれでも、「”他人”が思い考え感じていること」だと解釈してしまうのですが)。だからそれはあなた自身がその言葉通りに思っているのではなく暗号化されていて、反転映像だったりもします)。


ここの区別が自己の内側でまだ育っていない方は、外側の世界をあるがまま受け止めることができず、自分のこともまだ受け止めることができておらず、自分の内側(私はクライアントさんに、「自分で作り出した映画館の中にいて、自分が作った映画を観てこれが外側だと思ってしまっているのだ」と説明することがありますが)の映像やルールに振り回されてしまうので、生きづらいです。
外側のすべてを解釈し振り分けてしまう自分の内側の過剰なルールに気付き、自分自身に振り回されず(これを本人は多く、”外側・他者に振り回されている”と感じているのですが)、外側の世界をあるがままフラットに見て、自分自身のこともあるがままフラットに見ることができるよう学び成長していく必要があります(このフラットというのはあくまで、冷淡にだとか無頓着にというような意味ではありません。寧ろ本当の五感の感覚や本当の意味での外側の世界への興味積極性が引き出されてきます)。


音楽の演奏家(私が音楽から知っただけで、音楽だけではなく芸術すべてかもしれません)や、日本の伝統芸能、合気道などの古武術の世界では、自分の”外側”に自分自身の目を置きます。

…というと気持ちの悪い言い方になるので、宮本武蔵の言葉を少し借りましょう。
剣術の達人であった宮本武蔵は、相手と立ち会う(剣を交える)とき、『空を舞う鷹の目』で常に自分や相手やその場・周囲を俯瞰していたそうです。

この鷹の目、というのは、決して上から目線という意味ではなく、ただただ「あるものをあるがままに、フラットに、(更に言えば多角的に)」見るということです。ちなみに感情を交えない・情に流されないということと、冷淡・情がないということは、まったく別物です。ここでお話すると難しいかもしれませんからこの記事ではこれだけにします。

また、合気道などでは、目は顔の前面についているのではなく、後頭部よりも更に30㎝だとか後ろに目があって見ているかのように、要するに「自分の身体の背後から」見ている、というような言い方をすることもあるようですね。
達人はこれが日常生活からそうなっているわけです。

ちなみに、普段は白杖使用で物理的な目を使うことができていない私でも、少し前まではやはり顔の前面に目があるような意識でした。しかしこれで白杖単独歩行は、意識が狭く非常にごくごく僅かな空間情報しか感じることができず、怖い、非常に危険。
少し前から、白杖での外出時、歩いている時、いやできるだけ日常からなのですが、自身の身体の背後に自身がいるようなつもりで過ごしています。
すると、大変不思議なことと思われるかもしれませんが、空間認知ががらりと変わり、広範囲にアンテナが広がり、しかも安心感や落ち着き、重心がしっかりと下にくる感覚、つまり平衡感覚も安定して、より安全を確保しながら移動することができるのです。
視覚情報で周りがわからないからと言って意識が小さい範囲に閉じ込められてしまっていた(視覚障害者はなかなか空間がわからず自分の可動域が狭いと思い込んでしまいがちなのか、身体も縮こまってしまうものなのです)ものが、寧ろ逆に己の感覚やエネルギーが四方八方無限に広がっていくような感覚です。
(……それでも私は合気道の達人ではないので、まだまだ、ヒトの気配を察知して避けるほど鋭利な感覚は養われておらず、よく横断歩道の手前の誘導ブロック上で信号待ちをしている人の背中にはつっこみます…申し訳ございません、いっそう精進致します)

私は演奏家でもありますが、舞台で演奏をする時、私自身は演奏している演奏者というよりは、「客席」に座っています。
言い方、表現は難しいのですが、無理やり言語化すると、客席から演奏している自分を見ている感覚で演奏している、とでもいいますか…。
そして、これを、初めて「客観視」と言います。

自分の見え方には、3パターンあります。
・自分が自分の内側から、自分を主観するやり方(これは自分ルールや偏見解釈がかなり入ります)
・自分が自分自身の内側から、”他人の目”を借りたつもりで自分を見る(Aさんは自分をこう思っているのでは、こう見えているのでは…というパターン。これも自分の主観であり、自分のルールを推進します)
・鷹の目・背後の目で、自分の外側から自分自身の、しかしフラットな目で、あるがままにすべてを捉える
これを、区別できること、そして、3つ目を育てることが、本当の意味で外側の世界を歪み(色眼鏡)なく知り、対等に・直に付き合い、生きる、活きる、ことができる、ということでもあります。

つまり、日常生活であれ、演奏中の舞台の上であれ、どんなときであれ、自分を見ているのは「他人」ではなく「自分」なのです。
他人が自分のことをどう見ているかどう見えて感じているかなど、もしわかるつもりになったとしたら、それはあなた自身の決めつけです。
自分を見るのは、「自分」しかいないのです。

また、「自分」で「自分」に目をかけてやることができていないから、他人の目が気になる(他人の目でもいいし悪い見え方でもいいから見てもらっていると思い込みたい)ということも起こっているという言い方もできます。
(交流分析的な言い方をしてみると、自分自身へのストロークや他者との陽性ストロークのやりとりが欠乏している人は、他者からの陰性ストロークでもいいから欲しがって心理ゲームを起こす、というのと通ずる原理)

逆に、ちゃんと「自分の目、自分の見え方」で、「自分自身」を見てやると、無条件に、他の誰かからどう見られていようが、いや他の誰かから見られているかどうかすら、気にならなくなります。それを気にする必要がなくなるからです。自分自身が自分自身を見て(認めて)あげるほど、ひとにとっては、確かで強いことは実はないのです。


それでも、生きることに不安があったり、他者の目が気になったり、自分を見る方法がわからなかったりするひとは、あなた自身を生きやすくする手段のひとつとして、いつでもお声がけください。


また、外側の世界を認識するしくみ、鷹の目や背後の目の育て方、身体感覚の養い方や心や身体のしくみ、認知の歪みの修正の仕方、潜在意識、心理療法についてなどなど、知りたい方・学びたい方はぜひこちらへ。
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