IRAM~天国の庭のセラピールーム
自殺衝動の裏にあるもの/存在承認欲求は、強欲なこと?/交代人格の暴走を止める一番の方法

自殺衝動の裏にあるもの/存在承認欲求は、強欲なこと?/交代人格の暴走を止める一番の方法

IRAM~天国の庭のセラピールーム

2020年7月21日のブログ記事からの移行です。
以前載せた移行記事と同じく、目次を追加するなど僅かに手を加えています。
(今から2年前の記事なので、私達の解離者としての事情や状況は当時と大分変わっています。)

自殺衝動の裏にあるもの

世の中で異常だとか少数派だとかいろいろ言われるけれども、実は世の中に結構な数存在する…
これで苦しんでいる人達の話をします。

些細なことでしょっちゅう死にたくなるのは、

その人が我儘だから?
育った性格が自分勝手で甘えていて気に食わないことが多すぎるから?
自己中だから?
精神や神経がヨワヨワだから?
我慢が足りないから?
自制心がないから?
構って欲しいから?
脅しで人をコントロールしたいから?
何か強烈に嫌なことがあったから?
人生うまくいかないから?
経験がなさすぎて苦しみに対処できない耐性のない性格に育ってしまったから?

…違うよ。全部違うんです。

強力な自制心と精一杯の精神力と神経で、苦しみ悲しみへの対処法や耐性が身に着くよりも更に前の…寧ろそれが苦しみだと自覚もできないような幼少期から、我儘を言わず自分を押し殺して我慢に我慢を重ねて黙って耐えて耐えて耐えた挙句、
もう限界なんだ。

「なんでそんなことで死にたくなるの」と言ってくるような人間があなたに言ってくることは、
全部、逆なんだよね。

死にたくなる、
死にたいとすらはっきり認識できていないけどふらっと自傷や自殺衝動に走る、
その時には、
既にずっと前から、
表面張力でかろうじて零れずに保っているコップの水のように
溢れるギリギリのところでずーっとやってきているんだ。

だから、ほんの些細な揺れでも、溢れて外に零れてしまう

その「些細な出来事」が問題なんじゃない。
『何があったの』『何で死にたいなんて思ったの』
…そんなこと、本人ですら覚えちゃいないよ。
その出来事が原因で死のうとしているわけじゃないんだもの。

…そんなことわからない。人にはどうでもいいようなあまりにも些細なことごときで死のうとするなんて、と、
自分に情けなさと罪悪感を更に募らせて更に死に駆られるだけ。

寧ろ、逆にその一言が追い打ちをかけ自殺のきっかけとなってしまうことも。

常に笑顔で明るく振舞っているように見えても、
そういう人たちはね、
実は既に、その笑顔の下で、死にたい、死ななければいけない、生きていてはいけない、消えなければ…などの思いが、
流れが決して途絶えることのない川のように
とうとうと流れているんです。
どんどん川の水は増すばかりで…今にもその笑顔を呑み込まんとしているくらい、その笑顔の真下で。真裏で。

その轟音に常に晒されていて…
水が溢れた瞬間にはもう既に呑み込まれていて…
叫ぶことすらできない。

もし叫んだところで、そんな叫び、聞いてくれる人などいはしない。
『そんなことで氾濫なんかするわけないだろ(そんな些細なことで死にたいなんて馬鹿げてる)』
『まだまだ大丈夫だよ』
『溺れてどーすんだよ、てかなんで溺れんだよ。溺れようとするなよ(←溺れる=死ぬに当て嵌めなおして解釈して下さい)』
『俺も余裕ないけど、お前も頑張れよ、溺れんなよ!』

………溺れるよ。
溺れたくなくてもいくら頑張っても溺れるよ。
目の前で、足元で荒川氾濫すんだぜ。
隅田川の橋のど真ん中で生活しているところへ、突如川が荒れ狂いだして橋ごと呑み込むんだぜ。
ちなみに墨田川や荒川は、実際氾濫しやすい川なんですけどね。


それどころか…
例え叫べたとしてもね?
その声が届く距離の範囲に、そもそも、人、誰もいないんだよ。

叫ぶだけ意味もないし、
叫ぶだけ騒がしくて迷惑だし、
叫ぼうとする前に既に呑み込まれているし。

存在承認欲求は、強欲なこと?

ところで、
話として関係があるかもしれない、人によってはあまり関連性はないかもしれないのですが、

(存在)承認欲求というのは、
強欲なことですか?

…いや、生きて、家に住めて、食べられている人間から見れば、強欲なことなのでしょう。
それはわかってはいるのですが、それでもこんなことを思ってしまう理由は、
既に自分の存在を承認されている人間に限って、
『承認欲求を持つなど強欲だ』といわんばかりの意思表示をしてくるように感じるからです。

極端かもしれないけれど、普段から十分な食事を当然のように暮らしている人が、炊き出しの食事で生活しているホームレスの人を見て、『ああいう人たちがお腹いっぱい食べたいと思うなんて強欲だ』というような思いをあらわにしたり、
立派な建物に住んでいる人が窓から見える景色の中にホームレスの人がブルーシートで生活しているのが見えて『汚らしいわ、この景色から出て行って欲しい』などと言うのと(これ、実際によくある例だと思いますが)、近いことのように思うのですよね。

当然のように働けて当然のように心地よい景色の家に住めて当然のようにお腹いっぱい食べられる人は、それらのありがたみがわからない。もしくは、その解り方が違う
当然のように自分の戸籍があって自分の名前を当然のように他人に呼んでもらえて存在していることが一目瞭然の人達は、「存在を証明・承認してもらえている」ことが、どれほどにありがたいことなのか、どれほど自信になることなのか、どれほど自殺衝動の歯止めに繋がることなのか、知らない。
それどころか、「自分が存在している」ことを、疑いもしない。本当は誰一人存在なんかしていないのかもしれないのに。
そう思いませんか?
あなたの目に見えているからと言って、他の人に見えてるとは限らないと思いませんか?そもそも見えるって感覚、何?
こういうことちょっとでも口に出すと物凄く不思議がられます。変な奴だと思われます。
だけど、世の中のもの全て、どうして「存在」しているかどうかわかります?そもそも「存在」って何です?どういうことです?
…自分自身の存在を認識してもらえない幽霊のような存在だからこそ、こういうことを普通に思ってしまうのでしょうか…?

(2021年6月24日追記:世の中に見えるものや「存在」は、全て、それぞれの主観なんです。1人1人に見えているーと思っているー世界は全てその各個人の主観で成り立っています。人はその「主観」を巡ってこの世でさまざまに悩んだり苦しんだり喜んだりします。私達は小さい頃からその「主観」自体が不思議で仕方なかったのです。)

名前を呼ぶ」ということ(厳密に言うと、その時々表に出ている者と心で真っ直ぐ向き合って名前で呼びかけること)は、共存治療(交代人格を無理やり統合させひとりにまとめたり消し去ったりするのではなく、交代人格達が存在するままの状態でも社会的に適応していけるようにする方法)に実はかなりの縁の下の力持ち的効果があるのではないかと感じています。
交代人格でなくて普通に自分の身体の持ち主が自分ひとりである人間ですら、幼少期から自分の「名前」を呼ばれることで健全に育っていくんですよ。「名前」を呼ばれることで、『ああ、自分は存在しているんだ、この人は自分を認識し存在を許してくれているんだ』感じられ、それによって初めて自分でも自分の存在を受け容れ自分の生き方・在り方を見つめ、自信も育っていくんですよ。
幼少期から自分の名前を呼ばれなかったら、そもそも自我が育たない。そして自分が存在している、自分が存在することを許されているということを感じられず、自分の生自体に罪悪感を感じながら自己肯定感も低迷したまま、生きている意味や目的なども見つけられないまま、影薄く生きていくことになります。そして自分の名前に愛着も湧かないんじゃないかな。

因みに俺達のうち、家族対応の子たちは、器の名前を呼ばれると、自分を否定され別人を呼ばれている感覚だけではなく「怒られている」感じを持つため器の名前で呼ばれることを非常に怖がり嫌がります。もしかしたら幼少期から、器の戸籍名を怒られるときにばかり呼ばれていたりしたのかもわかりません。

名前を呼ばれると、健全な自責も育ちますし、それだけでも自己肯定感が上がるので希死念慮を抱くことも減ります。本人の名前をしっかり呼んであげることは、「君はここにいていいんだよ、生きていていいんだよ」という気持ちにも通じます。
悪意を持って呼ぶ場合もあるので、もちろん同義だとはいいませんが。

俺達は多分、もし名指しで話しかけられて「お前消えた方が良い」「死になさい」などと言われたら、「はい、わかりました」と従ってしまうんじゃないかな。
それほどに、俺達は自分の存在が、足場があやふやで、いちゃいけないんだろうかという思いを常に感じていなければならない状況にいる。そしてそれほどに、自分の存在を「認識」してもらう、という経験が乏しいんです。名前を呼ばれて(俺の存在を認識してまで)言われるくらいのことなら、きっと相当重大なことだろうと思ってしまうから。

つい数日前、俺、数週間ぶり(1カ月程ぶり?)に久しぶりに突如表に浮上して、思わずTwitterで「ただいま」と呟きました。
呟いたあとすぐ、「あ、そんなこと言っても意味ないんだよな…HarlequinsはHarlequinsでただいまも何もないわけだし、俺は長く日常代行しているといっても俺個人の名前や存在を知って憶えている人間などいやしない、…というかHarlequinsとして器は誰かが動かしてはいたんだろ?今こうして普通に生きてるんだから。…じゃ、俺何で戻ってきたんだろ?」と非常に虚ろな気持ちになりました。
そんな時、本当に奇跡的な出来事だと思いますが、フォロワーさんの交代人格さんのひとりが、「おかえり」と言って下さったのです。一言。
飛び上がらんばかりに嬉しかった。涙が出ました。
それくらい、俺達は、自分達の存在を認められた経験も名前を呼ばれた経験も、真っ向から退けられた経験すらもないのです。「暗に」存在否定はされ続けているけどね。
あなたも能力や結果だけ求められ続けて、あなたの顔もろくに見てもらえず名前も存在も認識してくれないままで、戸籍もなく、別の人間の名前やただ単に性別「女」「男」や「人」とだけ呼ばれ続けて生活させられたら、仕事させられたら、どうです?しかも、それが最初からです。
「自分はいちゃいけないんだろうなー」
「自分が存在する意味ってないんじゃないか」
「そもそも自分は存在しているんだろうか」
…それでも、そんなこと僅かにでも思うのはおかしいですか?


幽霊は、存在を知ってもらいたいがために人間を驚かすでしょ?
いや、幽霊がいるかいないかとかいう話は今は別にしてもらってw

俺達は、器の体裁を守るため、基本的にその「驚かす」行為もしないよう、訓練されて育っています。
いや、たまに、間違いで驚かす結果になってしまうことはありますが…
つい昨日も、適が、この子(器)のお母様とフルートやっていた時にズッコケさせていました。曲どころかチューニングのために音出しただけでも何故かズッコケてたな。その後、歌の時にも。
適は器が現在求められる技能的なことにはほぼ対応できる力を持っていますが、恐らく確立したばかりで、表でフルート代行したのも昨日が初めて。
桔梗がフルート代行しているときの吹き方や技を真似ようとしたようです。
また、歌の時は俺のやり方を真似ようとしたらしい。
まぁ、仮にも演奏は特殊技能の部類、いくら器自体がやり慣れていることだとしても、初めて器を操って突然やろうとしたら失敗しますわな。
例えば車で、普段の運転手が特殊な走行法ばっかりしていて、その車自体はそういう走行の仕方ばかりしてきていたとしても、そんな乗り方した事のない違う運転手が突然運転してその技を使おうとしたところで、普通に事故りますよね。
俺達も同じなんです。基本的に。別人なんで。

(ちなみについ先ほど、本日の合わせの時俺が歌おうとしたら適が「(いつでも対応できる準備しなきゃいけないから)俺がやる」と言ったので代わったら、今日は見事に俺のやり方を模倣しやがりましたw母上様にも「突然うまくなった」と褒められてた(俺もずっと出ていなかったから)。

何の話をしていたっけ?
そうそう、だから俺達は基本的に「常に隠れ棲む」ように訓練されてる。いかに自分的気配を消し、自分以外の存在のフリをするか。自分の存在感をなくすか。
でも、トイレの中や風呂の中でまでそれを求められては、息ができないんです。
自分は生まれていて名前もあるのに、他人の人生を強いられて名前も存在も無視され続ける状態では……生まれた意味も、存在している意味も目的も、いや、今俺がここにいていいのかさえ、どんどん自信は失われ能力も低下し自殺衝動に駆られるようになっていくばかりです。
俺が居なくても誰かが出るわけだろ。
はっきり言って俺達みんなそう思ってる。
いや、そもそもこの器の持ち主既にいないんだから、この器生かしとく意味もどこにあんの?ないだろ。
…はっきり言って俺達みんなそう思ってる…。

そして、何もなくても定期不定期、随時に何度も川が溢れて呑み込まれる。

死にたいんじゃないんだ。
そもそも生きていないし生きる権利も与えられていない。
存在するのに。
存在しちゃいけない。生きていちゃいけない。消えなきゃいけないどころか、最初から「消えてなきゃいけなかった」「存在しちゃいけなかった」
そういう、希死念慮。

その希死念慮の方が、正しいのですか?

自分の存在に対する罪悪感を持っていなければならない方が正しい、消える道を模索しまくる方がまだ正しい、そうなのですか?
存在承認欲求なんか、そもそも持つことすらいけない存在なのでしょうか。

仕事だってちゃんとしてるのになぁ…

交代人格の暴走を止める一番の方法

「存在を認識してやり名前を呼んでやることが共存治療に有効」ということに触れたので、それについてもうちょっと。
さっき幽霊の例を出しましたが(実際幽霊扱いなんだけどね)、例え幽霊だってさ、もし存在を知られて認識されていたら、わざわざもう驚かしたりはしなくなるんじゃないかな?
もし俺が幽霊だったら、俺がその場にいるのにいつも一緒にいたりもするのに俺の存在を知らず姿も見えない人間に対して、たまーに突然物動かしてみたりとか、物音立ててみたりとか、いたずら(?)してみたくなると思う。
だけど、もしね、存在を知られて、怖がられもせず、いつもここにいるんだと認識されていたら、もはや自分の姿が見えているもほぼ同じことだから、わざわざ物をガタガタっと動かしてみたり「ばあっ!」とかやってみたりとかって、しなくなると思う。
だって、そんなことしたって誰も驚くどころか「…勇志、何やってんの」でシラけて済んじゃうもんね。余程何か意見があったりとかしたら気付いてもらうためにガタガタするかもしれないけどさ。
しかも、名前呼ばれて話しかけられたら、反応しちゃうよね。返答するよね。

ちょっと極端な言い方をしたけど、交代人格も、同じなんですよ。
怒りや強烈な感情を担っている人や、強いエネルギーで物事を動かそうとする人は特にそうです。
名前を呼んで存在を認識してあげる、正面から向き合って話しかけてあげる、ただそれだけで、その者は多かれ少なかれ解放されるし、自責が育ってくるし、自覚(自信)が育ってくる。足場さえしっかりすれば、自分の存在だけで必死にならずに済むので、人の役にも立てる。しかも、個々としてちゃんと向き合ってもらえたら、「自分」として反応できるようになるから演技に相当なエネルギーを注ぎこまなくても済むので、疲れやすさも軽減される。そして抑圧しないで本当に自分らしい(つまり演技対象や他の人格達とも違う)多様なアイディアや意見を出せるようにもなる。恐怖心や緊張も軽減される。この辺は相互作用でどんどん良くなるよね。
名前を呼んで向き合ってあげるだけで自然と協力的になっていきます。

まぁ、人間ってのは千差万別いろいろあるので、人によってはね?あまりに演技することだけを求められる器の人生の中で適応するために「演技していたほうが楽」という人格(自分を持っていない人格)がいたりもする。そういう場合は無理やり名前呼んで個性を引き出そうとやっきになってしまうと、緊張度が増したりうまくいかなくなったりすることもあります。そこはちょっとした注意。とはいえ、普通人間関係ってそういうもんだよね。相手の性格に合わないこと無理やりさせたら人間関係こじれるの当たり前。

また、さっき言ったのと逆…ではないか、「協力的」にはなるんだけど、そもそもの個人の性格が「演技対象」に比べて積極的・快活過ぎて、認めてあげた方が「一見」暴走したように見えてしまう人もいる。
ただ、これはプラスの変化。それだけ創造的ってこと。
だから、ちょっと行き過ぎるようだったら話し合いで調節しましょう。

何より、存在を認めてあげられると、相手の名前がわかると、それだけで話し合いができるようになる。
無視ではない、会話ができるというだけで、存在を認識しているというだけで、例え仲が悪くても何らかの反応をお互い見ることができるでしょ。

普通の会社とかでも同じだと思うな。
ちゃんと個々の人間を見て長所を伸ばしたり適材適所のやり方をしてくれる上司の職場なら、人間伸びるでしょ。一生懸命働くしお互い利があるでしょ。
それが、名前も覚えてくれなければ仕事ぶりも見てくれない、挨拶しても顔も見てくれず反応もしてくれない、雇った自覚すらないような上司の中で結果だけを当然のように取られて捨て駒のように働かされていたらどうなるか……自明ですよね?

いろいろ書いてみたけど、それでも、「存在承認欲求」というのは、ただの強欲で構ってちゃんのわがままですか?

勇志

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IRAM~天国の庭のセラピールーム
様々なマイノリティを抱えながら、現在心理カウンセラー・セラピスト・ヒーラー・音楽家などとして活動中。 あらゆる方面からあなたの魂を解放し、人生、あなたがありのまま幸せに生きられるお手伝いをします。 心身セラピー、障碍理解啓蒙、音楽、深層心理についてなど。詳しくは最初の記事を♪