生きる、というそばには常に「あかり」がある

生きる、というそばには常に「あかり」がある

言語学者の大西泰人先生の言葉です。

最近、早朝から部屋にラジオをつけっぱなしにして過ごしていることが多いのですが、最初は古楽の番組を目当てに流していたら、そのうち、6時~8時は英会話講座が立て続くことを知り、しかしそれもなかなか面白いので、つけっぱなしていました。
その中でも、高校生レベルの英語の番組で、この先生がとても面白い。

そんなわけで作業をしながらも良く聞き耳を立てているのですが、英語番組の最初の挨拶…日本語で何かいつも一言「つまらないこと・余計なこと」を仰ることをしておられるのですが…その時にこれを仰り、…その後この言葉が印象深く耳に残りその日の英会話講義の内容はまるで頭に残りませんでした。(笑)

ご名言でした。

なぜ、「生きる」のそばには常に「あかり」があるか、おわかりになりましたか?
言語学者らしい発見です。
あいうえおの50音順を考えてみてください。
”あ”、”い(生)”、 う、え、お…
”か”、”き”、 く、け、こ…
ら、”り”、”る”、 れ、ろ…

「生きる」の「生」の一音前(隣)には「あかり」の「あ」があり、
「生きる」の「き」の一音前(隣)には「あかり」の「か」があり、
「生きる」の「る」の一音前(隣)には「あかり」の「り」が、あるのです。

ただの偶然の言葉遊び、で流してしまうかたは、それはそれで構いません。

しかし、言語学者ではなくとも言語というものをひたすらひたすら深く深く駆使するセラピストをやっていると、
言葉というのは、実は、なぜだかわからない…説明をしにくいような領域に、とてつもなく深い意味や関連性が、隠れていることがわかります。

日本語は、特に、古来から本当に不思議なほど深く壮大に計算され尽くしているかのような、「すごい言語だ、これはうまい」と思うようなものが、数えきれないほどあります。

また、セラピストをやっていて常々感じることのひとつに、こんなものもあります。
ひとは、「自分の心身に対する扱い・外側に対する扱い・言葉の扱い」が、同じ扱いになるのです。これは随分前の記事でも説明していますので、これがどういうことかはそれらの別記事にまわします。読んでみてください。
しかし、自分の心や身体に対してこういう傾向の扱いをしていると、必ず外界に対しても同じ扱いをしている…つまり、日常生活でこういう生活傾向や行動傾向がある、ああ、この人は自分の心の内側でもこういう方向性が働いているのだな、と気付き、心理的・身体的アプローチでセラピーの大きなヒントとなります。心や身体の歪みは、使う言語体系にも大きく影響して、”そういう”言語体系(語彙や独自文法、喋り方、自分自身が使っている逐一の言葉の理解の仕方)を使っています。セラピーが進んで来ると、本人は気付かないのですが、その本人の使っている言語体系がどんどん変わってくるから非常に興味深いものです。


「生きる」のそば(隣)には、常に「あかり」がある

しかし、こんな五十音順で探してみないと、言われてすら、なかなかあなたは気付きませんよね。

同じように、「生きる」ことをしながら、実は常にいつも隣に「あかり」の存在があることに、気付かないひと、多いです。

ただ、一度気付くと、実は、「ああ、本当に隣だな」をわかる(感じる)ようになります。


あなたの「生きる」隣にもいつも常に「あかり」があることに、まだ気付いていないひと、
この記事を読んでも、「え?だからどうして生きるのとなりにあかりがあるの?」と、言語的文字的にもタネ(仕組み)が理解できなかったひとや難しかったと感じるひと、
「あかり」を見つけたいひと…

一緒に、あなたの隣にもある「あかり」に、気付いてみませんか?
私で良ければ、一度、お話かけくださいね。


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