支援や介助を受けねばならない人は本当に「障碍者」か?―人は誰でも支援の手を受けている

視覚障害状態を呈している私は、確かに、ありとあらゆる場所、ありとあらゆるシチュエーションで、誰かの支援の手が必要となることとなる。

しかし、それは、「支援されなければ生きていけない=能力の欠如・立場として下」だとか、そういうわけではない。
なぜならば、今の「社会構造」は、ほとんどが、「視覚情報に一定以上頼る人」向けに作られている。大分以前に私は似たような記事を書いたことがあるが、もしこれが、視覚情報でなくほとんど嗅覚情報に頼るシステムを採用した社会であったら、人類はみな困るだろう。信号が赤・青の二択ではなく、横断歩道の向こう側から漂ってくるラベンダーの香りかジャスミンの香りかという違いであったらどうか。…「嗅覚」というもの自体が備わっていてですら、そうなるのだ。
寧ろ…その場合、もしかしたらだが、視覚障害者の方が僅かに有利かもわからない。いや、それにしても判断して渡ることは命がけだろう…
しかし、こういう社会システムの中であれば、犬は有利かもしれない。しかしヒトは例えどんなあらゆる高度な能力をたくさん持っていようが、横断歩道を渡る時は補助犬の介助を受けねばならなくなる。
それと同じように、例えば蝙蝠は、赤信号青信号では見分けられないが、だからといって蝙蝠は他の動物と比べて劣っているか。そういう話ではない。

支援されねばならないことは、赤ん坊のように世話をされている、だとか、誰かに比べて劣っているだとか、そういうことではない。
ヒトだってあらゆる能力の違いがある。漢字が読めない数学者もいれば、おつりの計算もできないが古文書を解読できる人もいるだろう。農業で頭角を発揮しどんどん作物を作るが機械はからきしな人もいれば、IT企業でどんどんあらゆる効率的なプログラムや発明を産み出し続けるが食べ物のことなどまるで知らない人もいるだろう。しかし、どちらを持っている人もそれぞれいなければ、社会は成り立っていない。

必ず、世の中は目に見えないところで支え合い補い合いで成り立っている。

この記事では私自身が持つ状態である視覚障害を例えとしたが、これは視覚に限ったことではないと思う。
例えばだが、会社でバリバリ業績を出すが車椅子で段差の昇り降りが難しく人の手を借りる必要がある会社員と、会社でバリバリ業績を出すが料理がからっきしでどこかの料理屋で作ってもらって買って帰らねばならなかったり帰宅してから共働きで疲れている妻に時間を捻出させてしかも巨体の男性量の料理を作ってもらわねば食べることが難しい会社員と、何が違うのか?

ただお互いが持っていない部分を補い合いながら団結し、支え合い補い合いの輪で、その力を大きく大きくしていくことに、「枠付け」の意味はないのである。

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