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障碍、障碍者って?-障碍理解

障碍って、何?


障碍者、社会的弱者、マイノリティ、などという言葉があります。

これらは、一体何を表す言葉でしょうか?

…これらの言葉には、実は、明確な定義はありません。

物凄く極端な言い方をすると、要するに、時代が生みだした「流行り言葉」のようなものとすら、言えるもの。

中でも、「障碍」に関するWHOの定義づけに、興味深い部分があります。
「障害とは、身体の損傷、活動の制約、参加の制限が含まれる包括的な用語である。損傷は身体における機能もしくは構造に対するものを指し、活動の制約は個人が仕事や行動を行う際に直面する困難を指し、参加の制限は個人が生活する中で体験する問題である。したがって、障害は複雑な現象であり、ある個人の肉体が持つ特徴と、その人が生きる社会の特徴とがもたらす相互作用の反映である。」


障碍・マイノリティ、という括りにされるひと、されないひと


世界には、たくさんの人がいます。
そして、「ヒト」というのは、本当にあらゆるひとがいますよね?

身体の大きさだって様々で、同じ大人でも140㎝くらいのひとから200㎝を超えるひとだっていますし、電車なんか乗ったらわかるでしょう?身体が小さくて本当に小さな小さな鞄をいっぱいいっぱい抱えているひともいれば、その隣に巨大で身長も高くて骨盤や腹回りもしっかりでかくて、隣の小さな人の半分、下手をすればその人が中に軽く入ってしまうような荷物を軽々と背負っている人もいる。
見た目だけでなく中身も違う、生まれたばかりの赤ん坊と大のおとなとお年寄り、これ、ひとという生き物のことを知らなければ、別の生き物に見えるくらいに違いませんか。
「男」「女」と呼び分けられているように、中に入っている臓器まで違うひとたちもいる。
見た目(肌)も白い人もいれば黒い人、黄色い人だっているんですよ!

神秘です。ワシとタカだって区別されるのに、モモンガとムササビだって別の生き物だと区別されるのに、どうしてヒトというのはここまでの違いがあるのに同じ生き物だと分類されるのでしょうね!

さて。

障碍者、という「言葉の枠付け」-「障碍者」は本当はいない!

ヒトというのは、個体によって本当にこんなに違うのに、そして、足の長さや手の長さだって、力の強さだって、バランス感覚だって、視力だって、人によって全然違うのに、どうして、「道具(白杖や点字ブロック)に頼るくらいに視覚情報に頼ることが難しいヒト(逆に言えば移動に道具を使うひと)」や「道具(補聴器や筆談道具)に頼った方が音を聴いたり人とコミュニケーションができるヒト」や「道具(車いすなど)を使うことで移動するひと」「普通の社会で働くと不調を起こしたり周りとうまく行かなくなるひと」などを、ただただまとめて「障碍者」という一つにくくることができるのでしょう?

…それでいて、どうしてお年寄りで「最近目がかすんでねぇ…」という人や「耳が遠くて聞こえんでね…」「ついさっきのことが思い出せないんだよ…あれ、あんたは誰だったかね」というひとたちは、「障碍者」というくくりにしないのでしょう。
赤ん坊でまだ言語獲得していない子や感情を爆発させてしまってひととコミュニケーションがうまくいかない子は、言語障碍や精神障碍者扱いではない。そもそも大人たちが座る椅子にすら届かないくらい小さいのに、「身体が小さい障碍」ではない。

「それはまだ赤ん坊なんだから、もう年よりなんだから、当たり前じゃないか!」という声が飛んできそうです。

はい、その通りです。当たり前なんです。

私が何を言いたいのか。
赤ん坊は、そういう特性があって当たり前。
年寄りは、そうなっていくので当たり前。(だけど実社会で理解されているかは別ですがね)

通常の「人間」が、「障碍」と枠づけられているひとたちが、如何に当たり前扱いされていないかということなのです。
だってね、まあ、少しばかり過激な話をしますけれども、あなたご自身が(あなたが今どのような状態の方であれ)、明日、目が覚めた時に、目が見えなくなっている・耳が聞こえなくなっている・出かけた時に事故や事件に遭遇して明日から下半身が使えなくなっている、特に電気自動車やらドローンやら高所に鉄筋積み上げたりの工事やらあちらこちらで普通の世の中、あなただけはそうならない保証がどこにありますか。日本に突然爆弾が落ちてきて手足が吹っ飛ばない保証が、どこにありますか。
あなたが年をとった時、目が見えなくならない・耳が遠くならない・手足がしびれて来たりしない保証がどこにありますか。…目が見えない・耳が聞こえない・手足がうまく動かない、そんなに珍しい、知らない世界のことですか、珍しい別枠の生き物ですか?

また、同時に、目が見えない・耳が聞こえない・足が動かない…こんなに違うのに、ただただ一括りにされる。これは、つまり決して「障碍者」という分類の特性や人種のような「種類」があるわけではなく、「分けなければならない別の理由がある」&「時代の流行りの枠付け」である、ということなのです。

障碍、は、どこに起こるのかー人体か、環境か?

実は本当にあらゆる角度からお話をしたいのですが、論点が広くなりすぎてわかりづらくなってしまうので、最初にお話したWHOの視点に少し戻りましょう。
「障害とは、身体の損傷、活動の制約、参加の制限が含まれる包括的な用語である。損傷は身体における機能もしくは構造に対するものを指し、活動の制約は個人が仕事や行動を行う際に直面する困難を指し、参加の制限は個人が生活する中で体験する問題である。したがって、障害は複雑な現象であり、ある個人の肉体が持つ特徴と、その人が生きる社会の特徴とがもたらす相互作用の反映である。」

これは、少なくとも私が今までお話してきた部分と、一致する説明があると思っています。
そう、「障碍」は、特別な枠組みに当て嵌まるような人たちがいるわけではなく、
ある個人の肉体が持つ特徴と、その人が生きる社会の特徴とがもたらす相互作用の反映」
なのです。
「障碍」とは、「ひとの中にあるものではない」ということ。
ひととひととのかかわりのなかで、生まれるものだということです。

ちなみにその前に太字にした説明。
「活動の制約は個人が仕事や行動を行う際に直面する困難を指し、参加の制限は個人が生活する中で体験する問題である。」

これも、私は最初の方で実は、におわせました。
『「道具(白杖や点字ブロック)に頼るくらいに視覚情報に頼ることが難しいヒト(逆に言えば移動に道具を使うひと)」や「道具(補聴器や筆談道具)に頼った方が音を聴いたり人とコミュニケーションができるヒト」や「道具(車いすなど)を使うことで移動するひと」』

そう。こういう人たちは、白杖や補聴器や筆談器具・車いすなどといった道具を使うことで、今は社会において活動をする人が多いです。
そして、これらの道具自体も、社会が生みだしたもの。

けれども…ちょっと考えてみて下さい。

道具を使わないヒト、いませんよね?

ちょっと極端なこといいますよ。
階段を使わないで2階や3階に自分の足だけで昇ることができないひと(いや、できる人がいたら怖いですが)、障碍者ですかね。
飛行機や船、使わないと外国に行けないひと、障碍者でしょうか。
はさみを使わないで紙をすぱっと綺麗に切れなかったら、障碍者でしょうか。

人間社会の環境は、「ヒト用」に作られている

…ちょっと例えが難しいかもしれません。が、実は私、こういうこと本当にしょっちゅう思うのです。
私(達)は楽器をやります。
ハープって、この形、この大きさで作られているから、人間(ヒト)にも弾けるんだよなぁ…「ヒト用」に、作っていただけているからなんだよなぁ…
これがもし、ハープの木枠が全く別の形で、ヒトの身体に傾けて預けた時にまるでフィットしない形だったら?一番遠くの弦が、人間の腕の長さなど考えられず物凄い弦の数あって遠くの弦が絶対届かない程の距離にあったら?
…ちなみに、アラビアの方の楽器に「ネイ」という竹の縦笛(斜め笛…?)があります。これは、篠笛と同じようにあらゆる長さがあるのですが、長いものは、私達の器の身体では、穴を押さえきれないどころか、アラブの男性が(当然両手で全部の穴を押さえるわけですが)片手で押さえる分、つまり全体の上半分の穴を、この器の両手で塞ぐのでいっぱいいっぱいの大きさがあります。
…これ、穴押さえられないからって私達の器が特殊な障碍者か?それとも、アラブの男性がでかすぎて特殊な生き物か?
…そういう考え方、しませんよね。
でも、実際、ネイはアラビアの楽器、アラブの人達の体格に合わせて発明されているわけですから、日本人が指を届かせるのはなかなか難しいんですよ。
ハープも同じ。「ヒト用」だから、あの形、あの大きさ。(因みにグランドハープは、私達の器では一番遠くの弦、届かない)
階段だって、ヒトに合わせて作られているから、ヒトは昇降できる。だけど、まだ小さな小さな子供は、その階段も1段1段が高すぎて、うまく登れません。でもこれって障碍者だからかっていうとそうじゃなくて、身体が小さい、足が短い、バランス感覚がない、だけですよね。けれど、その子にとっては、行きたいところに行き着くための階段が上れない。これは、「障害」です。
その子に障害があるのではなくて、「その子が行きたいところへ行くにあたっての」障害です。
つまり、「個人が仕事や行動を行う際に直面する困難」ですね。

障碍、は、どこにあるのかーヒトか、環境か?

ちなみに私は、視覚認識に難がある……いや、という言い方はしたくありません、「今の社会において色々な活動や行動を、社会に認められるやり方とスピードで行う上での困難」があります。
私(達)は、この場で随分多くの記事を、しかも長文を書いていると思われていることでしょう。
ただ、やり方を知られると驚かれるかもしれません。
私達(特に主軸状態)は、まず、1日の中で視覚認識を働かせていることができる時間が短いです。つまり、事務処理を行う時間に大分制限があります。なので、記事を書く時間も、かなり計算して配分しています。
そして、この記事だけ読んでいてもわからないでしょうが、私達はまずPC画面に向かうのに、光を86%(だったかな?)カットする遮光グラスをかけ(時にはその下にブルーライトカットグラスをかけていることも)、更にPC画面の輝度をかなり落としています。
それでも光による負担や痛みが大きく、すぐに疲れてしまいます。
そして、そこまで暗くすると、今度は一緒に文字も見えません。ですから、PC画面の拡大鏡機能を即座に利用できるようにしています。それと同時に、そもそもの表示文字の大きさの設定も大きいです。
そして、(できないアプリやページもあるのですが)大抵白黒反転しています。というのは、白い背景に黒い文字だと、白い眩しさで黒い文字が飛んでしまい見えづらい。更にPCの輝度を落とすとやはり余計文字は見えないので、逆に黒背景に白文字にして白い文字だけが光り浮き出るような形にするわけです。しかし、白文字が眩しいのでやはり少し経つともう辛くなり、更に輝度を落として結局見えにくい。
焦点を合わせたり追っていくのも辛いので、たまに(というよりうまく機能する場合が少ないので使えないのですが)音声操作を起動させて、文字を読ませたりもします。
その上、「動くもの」に対して眼球が拒否反応を起こすので、文字を打つときにどうしてもそこで点滅するカーソルや、文字を打ちだす時にどんどん打ち出される動き自体、見ていることができません。しかしカーソルは合わせねばならない、どうしても視覚を使わねばならないときは、右目だけ、しかも他者から見たら全く目を閉じて見えるほどの薄目で、しかも焦点を動かせない・視認にも時間がかかるので、時間をかけて一部だけ薄目で見て、次また目を閉じて少しだけ位置をずらして「この辺かな?」と当たりをつけてまた薄目でゆっくり見て…かしゃ、かしゃ、かしゃ、と、必要な部分の写真をとって頭で繋ぎ合わせるかのような作業を大変な時間をかけて。
けれど、皆さんはこの記事を読んでいるだけだったら、私達の視覚に「障碍がある」とは思わないでしょう。記事をちゃんと出来上がらせているから。
けれど、記事を打ち込んでいる姿や状況、状態、過程を見せたら、私達の「社会活動に対する障害」を、感じられることでしょう。
障害が存在するのは、そこなのです。

また極端な例を出しますからわかりにくくなるかわかりやすくなるか人によると思いますが、猫は、あんなに可愛いしふわふわだけれど、ふわふわだから(毛があるから)、2足歩行ができないから、可哀想な存在でしょうか。障碍でしょうか。
尺取り虫は、目が見えませんし手足もないから、3重苦4重苦でしょうか。
いや、猫も猫の世界で、尺取り虫も尺取り虫の世界で、「普通」ですよね。立派に生きています。
けれど、もし猫が、尺取り虫が、人間の社会で生きて行こうとしたら、「障碍者」扱いです。いや、まず2足歩行とか目が見えない手足がない以前に、身体が小さすぎて使える道具もひとつもありません。

極端な例に見られるかもしれません。が、うちは主軸さん(この記事を書いた頃は交代人格たちがわかれていました)が、良く自分を尺取り虫に例えることがあります。というのも、彼は白杖で物を探る時、尺取り虫のやり方をイメージしてそこから学んだ部分があるからです。
私達は、特に主軸さんの状態では、視覚認識が問題なくできる人たち用に作られた社会では、なかなか目が見えるひとたちと同じスピードでついていくことはできません。いや、そもそももし同じやり方をしろと言われたら、全くついていくことができません。
けれど、道具を使ったり、彼なりのやり方をすることで、こうやって記事を打ち込んで出したり、外出をしたり、結果としては同じ活動をすることができます。
これは、あなたが、箸があるから手を汚さずに人に白い目で見られずに食事ができるのと、同じです。いや、そもそも手で食べたら白い目で見る社会がおかしいような気がしますけれども。
要するに、人間にできるできないがあるわけではなく、社会が、あなたにできるように合わせてくれているのです。
世の障碍者と呼ばれる人たちのできるできないも、「できる」か「できない」かではなく、「自分なりの工夫や周囲の支えを求めることがどこまで許されるか」なのです。

もし、信号が色ではなく、香りの違いで変わるのだったら、ひとはみんな困ると思いますよ。
レモンの香りが横断歩道の向こうから出たら渡って良い、ベルガモットの香りになったら注意、ブドウの香りになったら渡ったらダメです!
…どうです?
多分、誰もわかりませんよね。
でも、これが犬の社会であったら、皆さん便利かもしれません。犬は遠くの匂いも嗅ぎ分けられます。ちなみに、犬(盲導犬)は信号の色は認識できないようですね。
如何に、社会があなた方用に作られているか。

例えば、私達(書くのが面倒なので主軸さん、にしましょうか)が道端で人に、「郵便局はどこですか」と聞いて、「ああ、こっちですよ、ついてきてください」と言われてさっさと先に行かれてしまったら、その2秒後、もうついていけなくなります。「どこにいらっしゃいますか」と大声で呼びかけざるを得なくなります。
けれど、逆に、停電をした建物の中で、そして点字案内のあるような廊下で、白杖(傘とかでも構いません)を持ったうちの主軸さんに、例えば出入り口はどこですか、と聞いて、主軸さんが「ああ、こっちですよ、ついてきてください」とさっさと行ってしまったら、あなたがついてこられません。
乱暴な言い方をします。「障碍者」という言葉を使うならば、環境で、どちらが障碍者かが変わってしまうのが、現代の人間社会なのです。

障碍、という概念ーフレームを変えると、みんな…

江戸時代には、恐らく「障碍者」という括りのような言い方はありませんでした。めくら、びっこ、だとかね。症状別(?)にわけた呼び方はあったかもしれませんが、それにしても決まった言い方はなかった。そして、枠付けがないだけに、みんな同じ人間だった。恐らく(もちろん自分の基準でしか物を考えられず相手を理解しない人自体はいたでしょうが)、それぞれがそれぞれにありのまま、受け止め合って補い合っていたのではないでしょうか。補い合うしかないから。
それが今、「障碍者」という言葉がわかりやすいようでいて逆にクッションとなり、隔てとなって、ひととひととがありのまま受け止められず、枠付け、レッテルで物を見て、その人を見ないようになってしまっています。

日常生活の動作を、例えば料理を、野菜を包丁で切る作業を、うちの主軸さんとしてみたら、突然停電してごらんなさい。晴眼者は止まるかもしれません。主軸さんは気にせず家事を続けますよ。それどころか、恐らくあなたに暗い中でも野菜を切ったり手を洗ってブレーカーの上げ下ろしをしに行ったりする方法を伝えて手伝うでしょう。
ただ、やり方が違うだけなのです。

得手不得手を、自分のできる方法や道具に変えているだけなのです。
「障碍者」ではないのに、警察は、犬に手伝ってもらうでしょう。先ほどの香りの例と同じで、麻薬やアルコールを探知するために。如何に警察官であっても、鼻にそんな機能はないから、犬の手助けを借りていますよ。
「警察官なのに麻薬探知できない」のは障害ではないのですよ。
なのにどうして「明るいところでも手探りで野菜を切る(手探りなら野菜を切ることができる)」のが障害者になるのでしょう。へたをすれば晴眼者で料理に慣れていないヒトよりも早いし細かいのに。
遮光グラスをかけて画面を暗くして記事を書くのも、人がその場を見ていたらなぜか「障害」になる。逆に、いくらそれで困ってますと言ったところで、ちゃんとした記事を書いていてちゃんと出していれば、障碍者扱いはされません。

要するに、「障碍者」は、環境と、周囲の対応で、「障碍者」かどうかが変わる、のです。
いつも通っている会社で突然真っ暗闇になって、白杖を持ったひとが「こっちです、ついてきて下さい、私の声の方にあなたの手を伸ばして下さい、そしてこうして私の腕に掴まっていて下さいね」と言って白杖を使って入り口まで晴眼者を誘導したら、そこに障害はないのではないでしょうか。
これは逆も言える話です。
信号も、香りで変わられたら誰もわかりません。しかし、光で変わる信号を、晴眼者が見て、白杖のひとがいたら「青になりましたよ」と伝えたら、そこに障害はありません。
例え香りで変わる信号だったとしてもです。もし、頭の良い犬を散歩させている人が同じ信号を待っていて、「信号変わりましたよ」とその場にいる人たちに教えたら、みんな何とか渡れるでしょう?(笑)

環境が、ひとが、誰かを障碍者扱いするかどうかなんです。

だって、誰だって得手不得手や、できることできないこと、あるでしょう。なのに、みんな気にせず補い合って生きているでしょう。

電車に乗っていて向かい側の人がコインを落として、自分の方に転がってきたら、その人の腕はそんなに長くないんだから、相手が立ち上がって取りに来る前に拾って渡してあげる。とか。

エレベーターで自分が階数パネルの前にいて、人がいっぱい乗って来たり降りて行ったりしたら、途中で扉が閉まってしまうから開くボタンを押していてあげる、とか。

みんなで食事をしにいって、塩をとりたい人がいて、でもその人の腕は塩までぐわーんと伸びるわけがないから、とってあげるとか。
か弱い女性がセルフでお茶のいっぱい入ったケトルを持ち上げようとした時、自分のがでかいし力があるから持ち上げて傾けて注いであげるとか。
支払の時、「あー、えーと私暗算できないんですよ~!えーといくらになるんだ…?」ってなった時、「あ、僕、暗算得意なんで、ひとり〇〇円ですね」とか。
ああ、この人、暗算できない学習障害なんだな、とか思わないでしょう。

確かに、今の「環境」において、尺取り虫のような境遇になりやすい人の方が、不利になることや苦労は多いでしょう。
けれど、今や、白杖だとか補聴器だとか車いすだとか、道具も増えてきています。そして、その道具を使いこなすことができる人や使い方の教育法もだんだん増えてきています。
けれど、その中でも、そもそも、わざわざその人たちは道具を多く使う必要があることも確か。つまりは、社会はそもそもが「ある特定の人達用」に便利に作られている、その中で、その「特定のヒト」と少し違う特徴ややり方を持ったヒトは、回りくどいやり方をしたり道具をたくさん使わねばならなかったりする。

それと同時に、「特定のひとたち」も、いずれ年を取ってきたら、もしくは、何か不慮の人生の転機、はたまた、ただの環境変化で、道具をいろいろ使っても日常生活の適応すら難しくなるかもしれない。年を取ってきたら、どの道その可能性は本当に高いのですよ。しかもその頃になると、その道具の習得さえ難しい。

だから、「特定のひとたち」も、それが自分達が有能だからとか当たり前とかではないのだということ、そして、だからこそ自分より工夫しないと環境に適応することが難しいヒトを支える、でもその人にも不得手なことがあって、それで先に支えられた方がそれが得意だったら、逆に補ってくれる。
ただ、どちらも、例えば先程の例で会計の時に会計担当を任されているのに「(私暗算苦手だからできないよー…ううー…)」と黙っていたら誰もどうしようもないけれど、「暗算苦手なの、計算機持ってないんだ、計算できる人助けて!」と一言言うだけで「僕暗算得意ですよ(計算機持ってますよ)、ひとり〇〇円ですよ」と答えてくれる人が出てくるのと同じように、「特定のひと」であれ「特定と少し違うひと」であれ、お互いに助けてほしいことは言うことができる(SOSを出して蔑まれたり辛くあたられたり怖い思いをしたりしない)社会をも、少しずつでも、広めていきたいですね。

そして、自分が年を取ってからも、周りの人に冷たい目で蔑まれたりあしらわれたりしない、方法や社会を、作っていきたい、広めていきたいですね。

バリアフリー、という言葉もありますが、
これはあくまで「障碍者・社会的弱者に優しい街づくり」などという(ある意味偏見がかった)意味ではありません。
「障碍」という流行り言葉の枠で括られるものを持っていようが持っていまいが、”ひと”と”ひと”同士は、心の「バリア(壁・障壁)」を、フリーに(解放)していくことが、必要なのです。

ひとは、ひとりひとり、全員が違う特性を持っているから、支え合い補い合えるのです。
農家さんが野菜を作ってくれているから、それをいろいろなところへ出回らせてくれる人がいるから、小売店で売ってくれるひとがいるから、その野菜を買うお金を稼がせてくれる人や環境があるから、その野菜を洗う水や料理道具やらの裏にいろいろな人たちがいるから、私達は野菜を育ててもいないのに、いただき、自分の命を繋げることができるのですよ。

最後に

私は、精神障碍・身体障碍当事者(今までの話をお読みいただいた上で敢えてこう書くと、本当に不思議な言葉に見えるのではないでしょうか)として、心理セラピストをやっています。
あらゆる理論や方法論だけでなく、いろいろな体験も重なった上で、更には自分自身の解離性同一性障碍や脳性麻痺・眼球使用困難症など-専門家にもわかっていることが本当に少ない-において、医療の世界で言われている寛解法以外の寛解法を編み出し、心・身・魂を繋ぎ本当に人間の奥深い本質の部分を癒すメソッドの体系化に導かれ、今現在、日本の心理療法家・セラピストではなかなかない、クライアントさん方には「宇宙で唯一無二」とも仰って頂く、その方の魂を直に一気に癒していくセラピーを展開しております(そして、これは私の”障碍”を含め何一つ欠けていたら今ここはなかったものです)。

その個々の人たちが社会で、この世で生きていく上でぶち当たる「障碍」を一緒に解放していくためや、症状の緩和なども勿論そうですが、もとより、”ひと”の心と身体の”バリアフリー”に繋がる…
…カウンセリングとかセラピーって、精神障碍者のためのものでしょ?…それ自体が偏見で、「障碍」なんて、先程言ったことをもう一度全て書かねばならなくなりますのでもう言いませんが…障碍、という言葉自体が偏見により偏見のために生まれたような、しかも文字だけ独り歩きしている言葉です。
私は身体や心に”問題”があるひとではなく(問題、なんて先程言ったように見方によってはどこにも存在しないしあるいはどこにでも存在するのですよ)、
ひと”のための、いや、もしかしたら…ヒトだけではないかもしれません。
”生きとし生けるいのち”のための、カウンセリング・セラピーを行っています。

「障碍」というのは、文字だけ独り歩きしている、ほとんど意味の伴わない言葉でしかないと言いました。
が、そのような言葉が既に独り歩きしているこの「概念の世界」において、その概念に寄り添って話を進めることももちろんたくさんあります。
「障碍」と枠づけられるものを持っている当事者として、障碍理解が広がるような活動、また、心や身体のマイノリティあるなしに関係なくご受講いただけるワークショップなども行っております。

そのため、少しでも「障碍」という概念について、考えるきっかけのひとつになれば、と思い、記事として残させて頂きました。

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🌠新協会(非営利)を立ち上げました
障碍のあるなしを含め、それぞれの個々が”生きづらさ”を解消し、心地良い「自分自身の」人生を獲得できること、また、ひととひととが、本来その人の中に在る感謝や思いやり・支え合いの心や行動を発揮することができる、自然と支え合うことのできる社会を少しでも広げていきたい、という理念のもとでの活動です。
障碍理解の交流やワークショップ、障碍のある方でも安心してご参加いただくことのできるワークショップなど企画・開催しております。
ぜひ、遊びに来ていただき、団体概要、理念など、ご覧いただけたら…また、共感していただけましたら、ぜひ、交流していただけましたらと、思います。

活動に協力していただける方も、募集中です。
活動に制限のあるひとたちだけでは、色々なひとたちや本当にこの世界が必要なひとたちにわかりやすいWebsiteや広告をすることや、裾野を広げてゆくことも制限がかかります。
いろいろな方、そして人数が活動の可能性を広げてくれます。
ぜひ、あたたかい心の一端を、一緒に広げていきませんか?

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🌠また、同時に、障碍(やマイノリティ)理解の活動のため、色々な角度から認識を深め広めていくことができるよう、私(達)は精神障碍・神経症・脳性麻痺・発達障碍・平衡感覚障碍・視覚障碍・HSP・LGBTなどと枠づけられるものの当事者ですし、その辺りの説明や支え合い方にどうしても寄りがちですが、他のいろいろな特性を持った方と繋がり、もっと多角的な視野で活動していけるよう、交流・連携・協力していくことができる方も、切に募集しております。

ぜひ、TwitterのDM、Websiteのお問い合わせフォーム、新協会お問い合わせフォーム(こちらも代表の私に直接繋がります)などから、お気軽にお声がけいただけたら、大変嬉しいです。

🌠このnoteの中でも、障碍理解についての記事を他にも「障碍理解」という項目(種別)でまとめてあります。
良いなと思ったら、ぜひ、周知、広めていただけましたら、ありがたいです。


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